バッハの二台の鍵盤楽器のための協奏曲の名演といえば、忘れてならないのがペキネル姉妹のディスクだろう。しかも、BWV1060とBWV1061の二曲に限っていえば、録音が三種類ある。これらの曲を三度も録音した演奏家は、後にも先にも彼女たちだけだろう。
イスタンブール出身の双子姉妹、ギュヘル・ペキネル(Güher Pekinel)とジュヘル・ペキネル(Süher Pekinel)は生年がよくわからない。ウィキペディアでも英・独・蘭が1951年、仏・トルコが1953年となっていて、小生より年上なのか年下なのか判然としない(まあどうでもいいのだが)。
派手やかな美貌と衣裳で人気を集めたピアノ・デュオという点ではフランスのラベック姉妹とよく似ており、なんとなく彼女らの後塵を拝した二番煎じの気味もなきにしもあらず。しかもどことなく色物タレントめいた浮薄なイメージもあって、小生なぞは長く敬遠していたのだが、どうしてどうして、ペキネル姉妹のバッハはなかなかに秀逸な出来映えなのだ。
論より証拠、まずは鍾愛のBWV1961を試しにお聴きいただこうか。
https://www.youtube.com/watch?v=fPhgETdFjI8
https://www.youtube.com/watch?v=Ii8UELu9MO0
清冽なピアノが小気味よく流れる、胸のすくような爽演であるとともに、音色が蒸留水のように無色透明で、そこが聴き手の好悪が分かれる点かもしれない。だが、これも現代におけるバッハのひとつのありようだと考える。これは彼女たちが手がけた三度目の録音で、次のディスクに収められている。小生はこれをまず最初に聴いた。
"J.S. Bach: Keyboard Concertos"
バッハ:
二台のピアノのための協奏曲 ハ短調 BWV1062
二台のピアノのための協奏曲 ハ長調 BWV1061
三台のピアノのための協奏曲 ニ短調 BWV1063
二台のピアノのための協奏曲 ハ短調 BWV1060
ピアノ/
ギュヘル&ジュヘル・ペキネル
ハワード・グリフィス指揮
チューリヒ室内管弦楽団
2003年6月23~25、27日、チューリヒ、ノイミュンスター
Warner 2564 61950-2 (2004)
上で視聴できるBWV1061では姉ギュヘルがプリモ(第一ピアノ)を弾き、他の三曲では妹ジュヘルがプリモ担当だというが、二人の音色や弾きっぷりは瓜二つであり、耳からは全く識別が不可能だ。BWV1063での三台目のピアノはダビングで追加録音されたものと記されるが、これを姉妹のどちらかが奏したのかは判然としない。
彼女らの演奏スタイルの出自を解き明かすのは小生の任ではないが、ここにはバッハ演奏を崇高な営みと看做す前世紀までの前提条件はなく、その意味で新世紀の幕開けに相応しい。察するに、そこにはピリオド楽器によるバッハ演奏の成果も織り込まれているらしく、疾駆するようなテンポ設定も、ニュアンスを極力抑えたタッチも、愉悦感に満ちたギャラントリーのあえかな湧出も、どこかチェンバロの演奏実践を念頭に置いているかのようだ。
"J. S. Bach -- Bob James/ Guher & Suher Pekinel"
バッハ:
二台の鍵盤楽器とシンソークのための協奏曲 BWV1060
二台の鍵盤楽器とシンソークのための協奏曲 BWV1061
二台の鍵盤楽器とシンソークのための協奏曲 BWV1063*
キーボード/
ギュヘル&ジュヘル・ペキネル、ボブ・ジェイムズ*
オーケストレーション&ミディ・シークエンシング/
ボブ・ジェイムズ
1989年、ブロンクスヴィル、コンコーディア・カレッジ&アーズリー=オン=ハドソン、リミディ・ステューディオ
CBS MK 45579 (1989)
今は昔、フュージョン音楽の雄ボブ・ジェイムズがバッハの楽曲をシンセサイザー用に編曲し、コンピューターで加工して、あらかじめ録音しておいたペキネル姉妹のピアノ演奏と同期させながらミクシングしたという代物。これが姉妹にとって最初のバッハ録音だった。ちなみに「シンソーク synthorch」とはシンセサイザー・オーケストラの略。
当時としては最尖端の演奏実践だったはずなのだが、三十年の時を経て聴くと、新しくもなんともない。大バッハによほど遠慮したのか、ボブ・ジェイムズのシンセサイザー用編曲にまるで新味がなく、閃きも才気も感じられず、面白さの欠片も見出さないからだ。今や古色蒼然。
ペキネル姉妹にとって、この演奏はもはや黒歴史のひとコマなのではないか。彼女らが世に出る過程では必要なステップだったかもしれないが、時の試練には耐えられそうにないアルバムだ。
"Take Bach -- Güher & Süher Pekinel - Jacques Loussier Trio"
バッハ:
三台のピアノのための協奏曲 ニ短調 BWV1063*
二台のピアノのための協奏曲 ハ短調 BWV1060
二台のピアノのための協奏曲 ハ長調 BWV1061
イエスは変わらざるわが喜び(二台ピアノ版)~BWV147
ピアノ/
ギュヘル&ジュヘル・ペキネル
ジャック・ルーシエ・トリオ
ピアノ=ジャック・ルーシエ*
ドラムズ=アンドレ・アルピノ
ベース=ブノワ・デュノワイエ・ド・スゴンザック
1998年11月、1999年1月、パリ、パレ・デ・コングレ
Teldec 8573-80823-2 (2000)
ペキネル姉妹にとって二度目のバッハ録音はジャズ・トリオによるバッハ演奏の草分けジャック・ルーシエとの共演である。
うまい具合にBWV1061の第一楽章がYouTubeにあったので、試しにご試聴いただこうか。
https://www.youtube.com/watch?v=NdDJfOZY1Do
お聴きのとおり、昔からの「プレイ・バッハ」スタイルそのものなのだが、ペキネル姉妹はジャック・ルーシエの流儀によほど親炙しているのだろう、ルーシェその人のピアノと聴き紛うほど、その演奏スタイルと同化し、メンバーの一員であるかのごとく一体化している。
それもそのはず、全曲のアレンジはルーシエ自身が受け持ち、ペキネル姉妹はおそらく譜面に沿って演奏を繰り広げているのだろう。楽章の途中で《ラプソディ・イン・ブルー》の主題がちらと登場する趣向が面白い。
アルバムを通して聴くと、アレンジが古びた印象が皆無なのに気づかされる。前作のボブ・ジェイムズのアレンジが賞味期限切れで聴くに堪えないのとは大違いだ。つらつら思うに、ルーシエの「プレイ・バッハ」はすでに古典であり、流行とはもはや無縁な存在なのかもしれない。これからも折に触れ、聴き返すことになるだろう。