展覧会カタログの制作会社「コギト」を主宰される杉浦博さんが亡くなられたという。今日の朝方、美術館時代の同僚からのメールで知らされた。不意打ちを喰らい、まさかと思って、彼の会社に電話したら、やはりそうだった。昨日(5月30日)逝去されたという。享年六十七。
なんということだろう。ほぼ同世代の小生はただもう嘆き悲しみ、うろたえるばかりである。美術展に携わる者にとって、杉浦さんこそは、またとない協働者にして心強い味方だった。終わってしまうと跡形もなく消え去る展覧会だからこそ、カタログはその成果を後世に残すための唯一の媒体であることはいうまでもない。美術館の売店で「これは買わなければ」と思う上質なカタログを見かけると、奥付には決まって「コギト」の三文字が記されていた。
美術館の現場を離れて十数年になる小生は、杉浦さんとお目にかかる機会が途絶えてしまったが、それでも東京ステーションギャラリーでの「月映」展、東京国立近代美術館での「恩地孝四郎展」カタログなど、杉浦さんと「コギト」の入念な仕事ぶりはいつも傑出していた。未見だが神奈川県立近代美術館 葉山で開催中の「木魂を彫る――砂澤ビッキ展」もそうだという。
在職時に何度か杉浦さんと組んで展覧会カタログを作れたのは、懐かしくも誇らしい歓びである。学芸員の寄稿文に不分明なところがあれば彼は見逃さず、少しでもよい内容にしようと努力を惜しまなかった。限られた時間内に最善を尽くすべく、文字どおり昼夜を問わず骨身を削っていたのだ。オープニング前の展覧会場には必ず足を運び、現物との色照合に余念がなかった。作品が到着する前に印刷しなければならないカタログ制作の理不尽な困難を噛みしめながら。
最後にお見かけしたのは2005年春、東京国立近代美術館の「ゴッホ展」オープニングだったろうか。少し遅れて着くと、このときも会場の一郭でカタログ片手に作品と対峙する杉浦さんの姿があった。「う~ん、どれもこれも少しずつ違う。これだからゴッホは怖い」と、いつもの穏やかな口調でポツリ呟きながら。
「美術出版デザインセンター」在籍時から独立後の「コギト」時代まで、一貫して展覧会カタログに精根をこめた気骨ある編集者に、心の底から感謝の念を伝えたい。面と向かって言う機会を遂に逸したが「杉浦さん、お疲れさま。非常識な進行にもかかわらず、いつも綿密にカタログを仕上げてくださり、本当にありがとうございます」と深くこうべを垂れ、永年の苦労をねぎらいたい思いで一杯である。
「コギト」スタッフにうかがったら、お通夜とご葬儀はご親族のみで執り行い、後日、仕事仲間や関係者たちで「偲ぶ会」を催す予定だそうだ。
翌日の追記)
杉浦さんが「コギト」で手がけた展覧会カタログは膨大な点数に及び、とても数点の代表作を選べないが、小生はやはり版画やブックアートを中心にした美術展のカタログに、最もその美質が明らかに現れているように思う。『死にいたる美術―メメント・モリ』(町田市立国際版画美術館/栃木県立美術館、1994)、『田中恭吉展』(和歌山県立近代美術館/町田市立国際版画美術館/愛知県美術館、2000)あたりがその好例である。
近いところでは『村山知義の宇宙―すべての僕が沸騰する』(神奈川県立近代美術館 葉山/京都国立近代美術館/高松市美術館/世田谷美術館、2012)だろうか。拙コレクションから児童書を中心に40点ほどの出品が急に決まり、それがぎりぎり作品撮影の当日だったところから現場は大わらわだったと聞く。杉浦さんの渋い表情が目に浮かぶようだ。いつかお詫びせねばと思いつつ、その機会を永遠に逸してしまった。
出来上がった『村山知義の宇宙』展カタログは、そんな制作段階での大混乱などをよそに、どの見開きも整然と、絶妙なバランスを保って目の前にある。