半世紀前、田舎の高校生にとってLPレコードは高嶺の花だった。一枚二千円という価格が現今の物価のいくらに相当するか判然としないが、国鉄の初乗り料金が三十円、岩波文庫の★一つが五十円の時代である。乏しい小遣いではおいそれと購入に踏み切れない。それより何より、埼玉のわが家にはそもそもLPが再生できるプレーヤーすらなかったのだ。
前の投稿記事で採り上げた《パイヤール/現代フランス音楽選》は小生が手に入れた二枚目のLPだったのだが、購入に至るまでに上野の東京文化会館の音楽資料室で慎重に試聴し、「これは絶対に欲しい、しかもラジオでは滅多に聴けない曲目だ」という結論に達してから、ようやく秋葉原の「日の丸電気」のレコード売り場へ赴いたのである。付言すると、この店はクーポン券が貰えるので、一枚当たり何百円か節約できた。
いっぱしのクラシカル音楽の愛好家になるにつれ、秋葉原で手に入るLPだけでは満足できなくなった。少し珍しい曲目になると、需要が少ないため国内盤は発売されず、欧米からの輸入盤に頼らざるを得なくなる。ほどなく視野に入ってきたフレデリック・ディーリアスは英...国盤でしか聴けず、バルトークやコダーイの合唱曲はハンガリー盤のほか接する手段がなかった。
価格はどれも二千数百円と国内盤よりも割高である。この数百円の差額が途轍もなく高いハードルと感じられたものだ。
ルーセルを例に取るなら、1970年の時点で日本盤で聴けるのは、第三&第四交響曲、《蜘蛛の饗宴》と《バッカスとアリアーヌ》のバレエ組曲、弦楽のための《シンフォニエッタ》がせいぜいだった。同年に東芝からパリ管弦楽団による《ヘ調の組曲》やピアノ協奏曲、さらには《詩篇 第八十篇》が続けざまに出て狂喜乱舞したのは懐かしい思い出である。
ちょうどその頃だったと思う。銀座四丁目の山野楽器のレコード売場の輸入盤コーナーで、気になる一枚の輸入盤を見つけた。それまで見た憶えがない新着LPのようで、全く未知のルーセル作品が一曲まるごと収められていた。合唱入りの大作であるらしい。
ルーセル:
バレエ《エネアス(アイネイアス)》 作品54
ジャン・マルティノン指揮
フランス放送国立管弦楽団
ORTF合唱アンサンブル
1969年12月11~12日、パリ、ラディオ・フランス、スタジオ104
仏Erato STU 70578 (LP, 1970) →アルバム・カヴァー
https://www.youtube.com/watch?v=Z55e8-NKipQ
《エネアス Æneas》が一体どんな作品なのか、当時の小生には見当もつかなかった。無理もない、このマルティノン指揮のアルバムが世界初録音だったからだ。
エネアス=アイネイアス(アエネアス)と題されているのだから、トロイア戦争の武将で、古代ローマの建国の父となった英雄に因んだ音楽に違いなかろうが、これがバレエ音楽なのか否かも正直なところ判然としない。こういうとき、頼みの綱の音楽資料室も役に立たない。試聴しようにも既出音源がないのだから、聴いてみることができないのだ。
いくら小生がルーセルを贔屓にしているからといって、全く未知の作品のために大枚をはたくのはあまりに冒険的すぎる。もし手に入れたとて、フランス語のライナーノーツでは歯が立たない。なにしろ田舎の高校三年生なのだ。英語ですら読解が覚束ない。
店頭でアルバムを手に取り、矯めつ眇めつ眺めながら、しばらく逡巡した挙句、結局もとの棚に戻した。悔しいけれど致し方ない。貧書生の分際で、知らない曲に二千数百円を投じるわけにはいかないのだ。
しばらくして店を再訪すると、このLPはまだ売れずに同じ棚の同じ場所にあった。二か月ほどして訪れた際も、そこに残されていた。ルーセルの秘曲に注目する者など、当時(も今も)ほとんどいなかったに違いない。
結局このアルバムは購入することなく涙を飲んで見送った。半年ほどして棚を点検すると、さすがにもう姿を消していた。このときほど無念に思ったことはない。《エネアス》には縁がなかったものと諦めた。ああ、欲しいLPが好きなだけ買えたなら、どんなにか素晴らしいだろう!