老体に鞭打っての四日間(木金土日)連日の外出は、やはり骨身にこたえた。出向いた先は松戸、横浜、品川、佐倉、新宿、中目黒とさまざま、用件も物見遊山、展覧会見物、展示作業の立ち会い、旧友との呑み会、ライヴ鑑賞とまちまちだったが、疲労感が体の芯に滓(おり)のように沈澱しているのが感じられる。いろいろ書くべき感想文もあるにはあるが、それは後日に委ねることにして、今日はのんびり休養日とする。
届いたばかりの新譜ディスクの封を切って聴く。数か月前の発売告知と同時に予約し、到着を今や遅しと待ち侘びていたものだ。「聴かずに死ねるか」と言くたくなる、値千金の一枚なのである。
シャルル・ミュンシュ三度目にして最後の来日時の東京での貴重な実況録音。ドビュッシーはモノーラルだが、フォーレとルーセルとは難有いことに明瞭なステレオ録音で残されている。これだけでもう値千金の遺産であることは自明であろう。
1960年の初来日は当時の手兵ボストン交響楽団を率いて。62年には単身で再来日し、日本フィルハーモニー交響楽団を振った。そして三度目の1966年にはパリのフランス放送国立管弦楽団を帯同した。フランスの楽団との来日はこれきりであり、四年後にパリ管弦楽団が来日公演を行ったとき、ミュンシュはすでにこの世の人ではなかった。
七十五歳という高齢に鑑みて、フランス放送国立管弦楽団は初の来日公演にミュンシュのほか、常任指揮者モーリス・ルルー、主たる客演格のジョルジュ・セバスティアンも伴っていた。ミュンシュが振ったのは以下の二つのプログラム、四日分の演奏会である。
■ 10月8日/東京文化会館
■ 10月11日/大阪、フェスティバルホール
シューマン: 交響曲 第四番
ドビュッシー:《海》
プロコフィエフ: ピアノ協奏曲 第二番
独奏/ニコール・アンリオ=シュヴァイツァー
ラヴェル:《ダフニスとクロエ》第二組曲
■ 10月15日/大阪、フェスティバルホール
■ 10月20日/東京文化会館
フォーレ: 組曲《ペレアスとメリザンド》
ルーセル: 交響曲 第三番
ブラームス: 交響曲 第一番
NHKは東京でのニ公演を収録し、TVでもラジオでも放送したという。収録テープのコピーはフランス放送にも譲与されたらしく、INA(フランス国立視聴覚研究所)のアーカイヴに部分的に現存しており、そのうち10月8日の《ダフニス》と20日のブラームスのヴィデオ映像がDVD化され(EMI ただしブラームスの第一楽章が欠落)、20日のフォーレがCD化されたことがある(仏Disques Montaigne/ Auvidis ただしモノーラル音源)。
これらの音源が当のNHKアーカイヴに保存されているか否かはずっと定かでなかったが、今回そのうち8日の《海》、20日のフォーレとルーセルの存在が確認され、半世紀ぶりに陽の目を見た。嬉しいことに20日収録分はステレオ録音である。
ミュンシュがルーセルの《第三》を生涯の十八番としていたのは夙に知られており、パリのラムルー管弦楽団との正規録音(1965年4月収録)のほか、最晩年に精力的に客演した世界各国のオーケストラとの実況録音が残されている(1966年9月/ケルン放送響、1967年2月/シカゴ響、1967年5月/ハンガリー国立管など)。フランス放送国立管弦楽団との実況音源もあるが(1964年8月、エディンバラ音楽祭、仏Disques Montaigne/ Auvidis)、輪郭のぼやけたモノーラル録音なのが玉に瑕だった。
このたび発掘された1966年10月の東京でのルーセルは、ミュンシュと最も縁の深いフランスの楽団との共演によるステレオ実況録音である点で、これまでのどのライヴ音源をも凌ぐ特別な価値を有する。先に「聴かずに死ねるか」と書いたのはそういう意味からだ。
そんな次第だから、収録曲順に従わず真っ先にルーセルから聴く。矢も楯もたまらない気持ちだ。
一月にお会いしたキングインターナショナルの宮山さんから、リリース情報とともに「ルーセルが凄まじい演奏ですよ」と知らされていたが、まさにそのとおり、並々ならぬ気迫に溢れた途轍もない凄演である。
一言でいえば、これこそルーセルだという確信に満ちた白熱の演奏であり、音楽に加えられた推進力が尋常でなく、楽団員を激しく叱咤する叫び声が随所で聞こえ、いったん弾みがついたら最後、誰も驀進するミュンシュを留めることはできない。どうにも止まらないとはこのことだ。
ミュンシュのテンポ設定が早すぎ、随所で音楽が走りすぎて失速しそうになる気味があるが、手元にあるラムルー管弦楽団とのスタジオ録音と比較すると、各楽章の演奏時間は意外にもほとんど違わない。ライヴ演奏ならでは気迫と沸き立つような感興がそう感じさせるのだろう。
煽りに煽った挙句、終楽章のコーダに辿り着くや、音楽はいったん立ち止まり、ユニゾンの大音響が凄まじい雄叫びを上げる。千両役者が大見得を切るような芝居がかった結末だが、これこそミュンシュの真骨頂というべきだ。
オーケストラはとりわけ木管楽器群に懐かしいフランスの音色を響かせる反面、アンサンブルの結束にいささか欠陥があり、永くボストン交響楽団に親しんだミュンシュの厳しい要求に応えきれない憾みがある(これは正規盤のラムルー管弦楽団も同様だ)。良好なステレオ録音が残るシカゴ交響楽団との同曲のライヴ録音と比較すると、彼我との優劣は自ずと明らかであり、この機動力の脆弱さゆえに、パリ管弦楽団の新設が急務だったのだと思い知らされる。
その点で、フォーレの《ペレアスとメリザンド》はよほど安心して聴ける秀演である。絹のヴェールのように繊細で柔和な弦と管のアンサンブルが聞こえていると、ああフランスの音だとうっとり溜息。ミュンシュもここでは楽団員の自発性に多くを委ねているようだ。これまた素晴らしい聴きものだ。
一曲目の《海》もいかにもミュンシュらしい、豪快で剛毅な演奏だが、これがドビュッシーの真髄を捉えているかとなると大いに疑問が残る。あくまでも指揮者の芸風を聴くべき演奏だろう。これとても実演で耳にしたら打ちのめされ、ブラーヴォを叫んでしまいそうなのだが。