よく晴れた朝なので家人に促されて近隣の桜を観に行く。もちろん早咲きの河津桜だが、すでに満開状態。すべての花が咲き揃っている。ここだけは春爛漫である。この歳になると観桜は胸に沁みる。来年また観られるという保証はどこにもないからだ。昨日も旧友のご亭主が心臓発作で急逝されたと伝え聞き、人生の儚さを噛みしめたところだ。
帰宅すると、友人の投稿記事で今日がベルリオーズの命日だと教えられる。すっかり失念していた。今年は彼の歿後百五十年なので、これを好機として彼の未聴作品、とりわけオペラの大作に親しみたいと念じているものの、なかなか果たせていない。そうこうするうち、節目の日が来てしまった。
いきなり藪から棒にそう告げられても、心の準備ができていない。とりあえず咄嗟に手近なところにある数枚をかき集めてみた。
ここ半世紀で私たちのベルリオーズ理解は果てしなく広がった。それを象徴する出来事は青年期の宗教音楽《荘厳ミサ曲》(1824)の再発見だろう。1991年、アントヴェルペンのシント=カロルス・ボロメウス教会で百数十年ぶりに自筆譜が日の目を見た。作曲家はこの不本意な習作を自ら火中に投じたのではなかったのか? しかもこれは単なる若書きではなく、ここにはその後のベルリオーズの展開がすべて予告されている。《レクイエム》や《テ・デウム》とよく似た箇所があり、序曲《ローマの謝肉祭》の断片すら聴こえるのだ。最も驚くべきは第四曲 "Gratias" だろう。なにしろ《幻想交響曲》の「野の風景」そっくりの音楽なのだ! 初めて聴いたとき腰を抜かした。いやはや破格の天才である。ベートーヴェン在世中にここまで行きつけたのだから。
”Berlioz: Cantates du Pris de Rome"
ベルリオーズ:
抒情的情景《エルミニア》*
抒情的情景《クレオパトラの死》**
カンタータ《サルダナパロスの死》***
モノローグとバッカナール ~カンタータ《オルフェウスの死》****
ソプラノ/ミシェル・ラグランジュ*
メゾソプラノ/ベアトリス・ユリア=モンゾン**
テノール/ダニエル・ガルヴェ・ヴァレージョ*** ****
ジャン=クロード・カサドシュ指揮
ノール=パ・ド・カレ地域圏合唱団
リール国立管弦楽団
1994年10月、1995年11月、録音場所未詳
Harmonia Mundi HMC 901542 (1996) →アルバム・カヴァー
初心なベルリオーズ聴きはここでも吃驚。《エルミニー》の冒頭で聴かれるのは《幻想交響曲》の固定楽想そのものなのである! 本アルバムはベルリオーズがローマ賞を目指して書きまくった総じて不毛な、だが才能の片鱗が煌めくカンタータ群を集めたアルバムだ。作曲順に《オルフェの死》(1827、選外)、《エルミニー》(1828、二等賞)、《クレオパトルの死》(1829、選外)、《サルダナパールの死》(1830、一等賞)となる。お仕着せの歌詞によるカンタータ全部を聴き通すには些か退屈なアルバムだが、随所に天才の閃きがある。それにしても受賞作の題材がサルダナパロスだったとは! ベルリオーズは確かにドラクロワの同時代人だったのである。
”Berlioz: Nuits d'été/ Herminie/ Herreweghe"
ベルリオーズ:
歌曲集《夏の夜》*
抒情的情景《エルミニア》**
メゾソプラノ/ブリジット・バレー*
ソプラノ/ミレイユ・ドリュンシュ**
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮
シャンゼリゼ管弦楽団
1994年6月、10月、録音場所未詳
Harmonia Mundi HMC 901522 (1995) →アルバム・カヴァー
馴染の薄い曲ばかりだと疲れるので、ここらで鍾愛の《夏の夜》を。誇大妄想気味のベルリオーズに、かくも可憐でリリカルな小世界があることが喜ばしい。《夏の夜》には数名の歌手が交替で歌う録音も少なくないが、ここはオーソドックスにメゾソプラノひとりが独唱する。とはいえヘレヴェッヘ指揮のオーケストラだから響きの質が従来とかなり違う。《エルミニー》も先に聴いたカサドシュ盤と大いに印象を異にする。これら二作品についていえば、ピリオド楽器によるニュアンス豊かな響きが小生には好もしいものと感じられた。
《東京フィルハーモニー交響楽団名演集 Ⅰ》
ベルリオーズ: 交響曲《イタリアのハロルド》*
ブラッハー: パガニーニの主題による変奏曲
ヴィオラ/今井信子*
岩城宏之指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
1983年10月17日、東京文化会館(東京フィル第249回定期演奏会実況)
Livenotes WWCC-7208 (1991) →アルバム・カヴァー
最後は《イタリアのハロルド》。この曲の名演といえば若き日に今井信子さんがコリン・デイヴィス卿と共演した演奏(Philips, 1975)が永く愛聽盤なのだが、今日は彼女がその八年後に岩城宏之&東京フィルと共演した珍しいライヴ録音を聴こう。直接に聴き較べたわけではないが、デイヴィス盤に比して今井さんの独奏の自在さはいっそう増しているようだ。炸裂する管弦楽に一歩も引けを取らぬ構えの大きさが感じられる。岩城は一聴したところ野放図に鳴らしているようだが、その実よく「引き際」を心得た無理のない音楽を紡ぎ出す。そこに老練なヴェテラン指揮者ならではの手腕をひしひしと感じる。これは語り継がれるべき名共演ではないだろうか。五枚組ボックスの一枚だが、この一曲のためにセットごと購入しても惜しくない。少なくとも小生はそうした。