なんということだ。河﨑晃一さんが亡くなられたという。今朝(2月11日午前六時)だったそうだ。小生は何も知らなかったが、この数年間、重い病に冒されつつも、以前と変わらず精力的に仕事をなさっていたという。
河﨑さんは発足時から長く芦屋市立美術博物館の学芸課長を務め、同地に戦前から住んだ吉原治良と、彼が率いた「具体」の美術運動、中山岩太ら芦屋を拠点とする新興写真家たち、さらに広く戦前・戦後の阪神間モダニズムを丹念に調査・研究され、数多くの展覧会を世に問うた。
小生が河﨑さんと出逢ったのは、全くの偶然である。たまたま共通の知人である編集者が芦屋で彼と会食中、千葉の美術館のヌマベという男が趣味で戦前のロシア絵本を蒐集しているという話をしたところ、彼から「戦前のロシア絵本やったら、うちの美術館にも仰山あるで。吉原治良の遺品を整理したら数十冊も出てきたんや」という言葉が口をついて出た。その話を耳にした小生は「ロシア絵本と吉原治良」という組み合わせの意外さに驚きつつも、すぐさま芦屋の美術館に電話をした。河﨑さんから快く閲覧の許可をいただいた小生は直ちに調査用のデジカメを購入し、次の週には芦屋へ赴いた。2002年夏のことである。
そのとき美術館で手に取った吉原旧蔵のロシア絵本の素晴らしさといったら! 全部で八十七冊。そのすべてが珠玉の逸品であり、保存状態も良好、代表的な絵本も多く含まれている。小生の手元にも二百冊ほどのロシア絵本があるが、それらの大半は近年、ロンドンやパリの古書店で見つけたもの。芦屋に残された八十七冊はおそらく戦前、リアルタイムで蒐集されたと思われる同時代資料である点で根本的に異なる。これは世界的にも貴重な発見なのではあるまいか?
昂奮のあまり呆けたように絵本のページを捲る小生に向かって、河﨑さんはさりげなく、こう切り出した。「これで展覧会ができないかなぁ、どうです、沼辺さん、一緒にやりませんか?」。二年後に実現することになる「幻のロシア絵本 1920–30年代」展の構想が胚胎した瞬間である。
その日は芦屋に宿をとることにした。
芦屋に残るロシア絵本コレクションは、溜息が出るほど素晴らしいものだ。だが、それにしてもなぜ、1930年代初頭に、芦屋の地で、吉原治良がロシア絵本を…と疑問が次々に頭をよぎった。正直にそう口にすると、河﨑さんは「それに答えられる友人が一人いる。実は今日呼んであるので、これから一緒に夕飯を食べましょう」と言うと、食事の席で兵庫県立美術館の平井章一さんを紹介してくださった。
吉原治良とその周辺を詳しく調査されている平井さんは、1930年代初め、吉原の年長の友人に小西謙三という画家がいて、ロシアに滞在して絵を学んできたこと、その小西の肝煎りで吉原が『スイゾクカン』(1932)という絵本を出していることなど、縷々ご教示くださったのだ。
そういうことか。当時なぜロシア絵本が集められ、芦屋の地に伝えられたかを解明できれば、「具体」よりもはるか以前の若き吉原治良の果敢な試みと、彼を育み導いた人的ネットワークの一端が明かされるだろう。芦屋市立美術博物館にとって、まさに相応しい展覧会になる――そう河﨑さんは考えたのである。
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懇切な河﨑さんのお勧めにもかかわらず、小生は当初ロシア絵本の展覧会の開催にはどうも気が進まなかった。
ほとんど誰も知らないロシア絵本で本当に展覧会が成立するのか覚束なかったし、鑑賞者の共感が得られる自信もなかった。なにより、鍾愛の絵本たちを自分だけの愉しみに留めておきたい願望が根強く蟠っていた。広く世に知られてしまえば、競争相手を増やすばかりだというコレクター特有の独占欲と秘密主義に捉われていたのである。河﨑さんから「ぜひ一緒に展覧会をやりましょう」と強く背中を押されて、半ば不承不承ながら監修を引き受けたのである。決して自ら率先してではなかった。
でも、この展覧会をやって良かった。今はそう心から思っている。
「幻のロシア絵本 1920–30年代」展は2004年から翌05年にかけて、芦屋市立美術博物館、足利市立美術館、東京都庭園美術館、北海道立函館美術館、大分市美術館、下関市立美術館と全国六会場を巡回し、行く先々で思いがけず多くの来館者から驚嘆と称賛の言葉を頂戴した。展示された絵本に魅了され、うっとり見惚れる来館者に数知れず出くわしたのである。
驚いたのは美術雑誌の最大手である『芸術新潮』が七十数頁もの巻頭特集を組んでくれたことだ。レンブラントでもゴッホでも、北斎でも若冲でもなく、「誰も知らない」ロシア絵本が特集されるなんて、まさに前代未聞の出来事というべきだ。永年こっそり自分だけの愉しみのために集めてきた絵本がいきなりスポットライトを浴び、普遍的価値を認められたような気がしたものだ。言ってみればコレクター冥利に尽きたわけである。
河﨑さんとは、二人ですべての会場の設営と展示作業・撤収作業を行った。その時点で小生はすでに美術館を退職しており、学芸員ではなかったわけだが、彼と一緒に各地へ旅し、展示に工夫を凝らした日々のことは忘れられない。
皮肉なことに、美術館を辞めてから本当に自分らしい展覧会が創れた気がしたものだ。それもこれも、河﨑さんの思い切りのいい決断の賜物なのである。小生が彼のことを大恩人と呼ぶのはそういう理由からだ。
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その後、芦屋市立美術博物館は経営母体の変更や、学芸員全員の退職といった深刻な事態に陥り、河﨑さんもその同僚たちも今はもう美術館にはいない。嘆かわしいことだが、部外者の小生はただ溜息をつきながら、手をこまぬくほかなかった。
河﨑さんはその後、兵庫県立美術館の館長補佐を経て、2013年からは甲南女子大学の教授を務めておられた。彼はもともと布を用いた造形作家でもあり、佐伯祐三の大コレクターとして知られる実業家の山本發次郎のお孫さんにあたる。もっとも、彼は自分の出自を滅多に語ろうとせず、そのあたりはずっと後になって知ったことである。だから、小生が親しく接した河﨑さんは、一緒に展覧会を作り上げた同志であり、それを実現させた功労者にして、ずっとわが大恩人であり続けている。
近年はお目にかかる機会がなく、ご病気だったのも全く知らなかった。あの温厚な笑顔と、情に厚いお人柄、それでいて決断の早い信念と気骨の人、という印象がいつまでも消えない。ああ、もうお会いできないのか、と思うと胸が張り裂けそうだ。1952年生まれの彼は、小生ときっかり同い年なのである。その死の事実は計り知れなく重たい。