何よりまず選曲が素晴らしい。マラルメ、ヴェルレーヌ、ド・リール、ルイスとドビュッシーゆかりの詩人たちに因んだ楽曲が、ピアノ連弾曲、歌曲の区別なく、考え抜かれた配列でバランスよく並ぶ。
えっ? ヴェルレーヌの名がどこにも見えないって?
《小組曲》の最初の二曲のタイトル「小舟にて」と「行列」がヴェルレーヌの詩集『雅やかな宴』所収の詩から取られているほか、第三曲「メヌエット」の原型はテオドール・ド・バンヴィル詩による歌曲「雅やかな宴」であり、《小組曲》全体がヴェルレーヌ好みの18世紀ロココ雅宴画の世界の反映なのだ。さすがドビュッシーを知り尽くした青柳さんは、よくわかっておられる。
最近の青柳さんのアルバムでは通例になっているとはいえ、共演者の顔ぶれが今回もまた豪華である。
高橋悠治さんとの連弾は三年前のアルバム《大田黒元雄のピアノ》以来のコンビだが、今回はさらに趣向を凝らし、《牧神の午後への前奏曲》では悠治さんがこのアルバムのため特別に連弾用に編曲した新ヴァージョンが披露され、《六つの古代エピグラフ》では元になった舞台音楽《ビリティスの歌》で朗読されるピエール・ルイスの詩篇を悠治さんが新訳し、そのうち三篇を青柳さんが朗読するという念の入りよう。連弾の相方はもちろん悠治さんだ。
青柳さんにとってドビュッシーの歌曲を録音するのは今回が初の機会だと思うが、ここで共演歌手として彼女が白羽の矢を立てたのは二期会の盛田麻央さん。その歌唱がほれぼれするほど素晴らしい。
パリで学んだ盛田さんのフランス語のディクションは申し分なく、清潔だが艶やかな声質もドビュッシーにぴったりだ。ハクジュホールでの会でも、彼女は未完のオペラ《アッシャー家の崩壊》のヒロインを歌い、歌曲集《ビリティスの歌》も披露したので、その美声と表現力はよく承知していたが、本アルバムでの歌唱は更にその上を行く絶妙な出来映えだ。うっとり聴き惚れてしまう。ドビュッシーのピアノ語法に通暁した青柳さんの周到綿密な伴奏と相俟って、この世ならぬ夢心地へといざなわれる。C'est l'extase langoureuse.
わが鍾愛の《六つの古代エピグラフ》がまた名演だ。お二人の連弾が最も融和して響くし、曲間での青柳さんの囁くような朗読も、音楽によく溶け込んでいる。ここで悠治さんが手がけた新訳が読まれるわけだが、これらが鈴木信太郎による鏤骨の旧訳を上回るかは各自ご判断いただこう。とまれ耳に馴染む平明な日本語であることは間違いなさそうだ。
参考のため「名のない墓」の新旧の訳を並べておく。
■ 高橋悠治 訳 (録音から聞き取り)
ムナジディカが連れて行ったのは町の門の外。ささやかな荒地に立つ大理石の柱。「母のお友だちだった人なの」。
寒気がして、手を放さずに肩に寄りかかり、空(から)の杯と蛇の間の四行詩を読んだ。
「死神でなく、泉のニンフたちに連れられて、ここに安らう。軽い土の下、グザントが切った髪を抱(いだ)いて。あの人だけが泣いてくれるなら、この名は明かすまい」。
長いこと、お神酒を注ぐこともせず立ちつくした。冥界にひしめく群れのなか、知らない魂をなんと呼ぼうか。
■ 鈴木信太郎 譯 (『ビリチスの歌』白水社、1954)
ムナジディカに手を曳かれ、連れて行かれた。町の門を 幾つか過ぎて、荒れ果てた小さな畑の、大理石の墓碑の前まで、あの女(ひと)は妾(わたし)に言つた。『これ 母さんの女友達(おともだち)』。
その時 妾は戰いて、あの女の手を握つたまま 肩に軀(からだ)を靠(もた)れ掛け、盃(さかづき)と蛇の飾りに挾まれた詩句四行を 讀みとつた。
『わが命を奪ひ去りしは、死にあらず、泉のナンフなり。今はこの輕き地下に、グザントの髪を抱(いだ)きて 眠る。彼女ひとり 我を泣く。さはれ我が名は黙して告げじ。』
長いこと、二人はじつと立つてゐたが、墓石に酒を灌(そそ)ぎはしなかつた。一体、地獄(アデス)に犇めき合ふ群衆の中から、見知らぬ一人の魂を、どうして呼出すことが出來よう。