(承前)
前稿で小生はこう記した。
――リーザ・デラ・カーサが《四つの最後の歌》を歌うのを生で聴いた、という体験を小生は何よりも大切にしてきた。これこそは小生の生まれる三年前に世を去ったシュトラウスと自分とを辛うじて繋ぐ最後の絆のような気がしたからだ。何度もこの夜のことを思い出したし、何よりも彼女が初演のときの曲順を1970年になっても守り続け、東京でも「眠りにつこうとして」「九月」「春」「夕映えに」の順で歌ったという「事実」をずっと忘れずにいた。
以下に書き写すのは、2007年5月28日の旧稿である。
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ところが、それから三十年経って、その記憶を揺るがすような事態が起こった。2000年に埼玉の実家を片づけた際、古ぼけた小さな手帖が十数冊出てきた。ラジオやTVで耳にした音楽、ときにはコンサートの感想を委細かまわず書きつけた「音楽日記」である。
もとよりひどく拙い内容で、読み返すと笑ってしまうような他愛ない覚え書きに過ぎないものだが、そのなかに1970年4月21日の感想文が長々と書き留めてあるのを発見した。デラ・カーサについては、「舞台姿が非常に美しく、若々しく、充分魅力的だ」が、その声は「シュヴァルツコップフのそれほど生き生きとしておらず、いくぶんかすれていたようだ」などと偉そうに評している。
その条を読んでいて、思わずハッとするような記述に出くわしたのだ。
リーザ・デラ・カーザの歌は、ぼくに大きな感銘を与えた。ぼくはこの曲をシュヴァルツコップフのレコードで聴いて、その深い美しさに魅せられていたのだが、デラ・カーザは意外にも第3曲「眠りにつこうとして」から歌いはじめて、そのあと「春」「九月」「夕映えの中で」と続けた。
なんとしたことか、小生はずっと思い違いをしていたらしい。彼女はこの晩、他の誰もが試みていない特異な曲順で歌ったようなのである。すなわちこうだ。
3. 眠りにつこうとして Beim Schlafengehen
1. 春 Frühling
2. 九月 September
4. 夕映えに Im Abendrot
これはフラグスタート&フルトヴェングラーによる1950年の世界初演のときの曲順、すなわちデラ・カーサ自身が1953年の録音時に踏襲した曲順「3/2/1/4」とも異なるし、もちろん刊行譜「1/2/3/4」とも相違する。
本当にそうだったのだろうか。小生の手書きのメモは果たして信じてよいものなのか。
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いやはや困った。ずっと大切にしていた記憶が途端にあやふやなものに思えてきた。
1970年4月21日に日比谷公会堂で聴いたリーザ・デラ・カーサの《四つの最後の歌》。そのとき彼女が歌った曲順がわからなくなってしまった。
だが小生が永く暖めてきた記憶では、彼女はこれを「3/2/1/4」の順で歌ったことになっている。いったいどっちが正しいのだ?
そもそも、当日のメモ自体が誤りだったのかもしれない。なにせ、所詮は年端もいかぬ田舎の高校三年生の手書きメモなのだから・・・。
この曲にすっかり魅了された小生は、このあと程なくして銀座のヤマハ楽器店でデラ・カーサが録音したモノラル盤(Ace of Club レーベルの輸入盤)を購入して、それこそ擦り切れるほど聴いた。
先述したように、デラ・カーサは1953年の時点で世界初演時のフラグスタートの判断を尊重して「3/2/1/4」の曲順で収録していたので、ディスクを繰り返し聴くうちに、その印象が実演時の記憶と混じり合い、それに取って代わる形で、来日演奏でも同じその曲順で歌ったかのように、いつしか思い込んでしまった・・・。一応はそう考えて納得したのだが。
もしも当日のメモが間違いでなく、一片の真実を伝えているのだとすればどうだろう。
1953年と1970年の間のどこかの時点で、デラ・カーサはこの歌曲集の曲順を「3/2/1/4」から「3/1/2/4」へと変更し、解釈を少しだけ変えたことになる。なぜ彼女はそうしたのか。そしてそれはいつのことなのか。
数年前、リーザ・デラ・カーサが歌う《四つの最後の歌》を1954年に聴いたという興味深い証言を見つけた。これはこの曲の実演に触れたおそらく最初の日本人による記録ではないだろうか。ただし、四十年近く経ってからの回想なので、細部はかなり曖昧であるのは否めない。小生の1970年の想い出が不確かなのと、時間差の点ではまあ、似たようなものだ。
『四つの最後の歌』をはじめてきいたのは、一九五四年の夏(?)ミュンヘンでだった。これは一九四八年の作曲である。シュトラウスは一八六四年に生まれ、一九四九年に死んだのだから、死ぬ前の年の作品ということになる。弦楽合奏の『メタモルフォーゼン』などと並んで、この巨匠最晩年の心境を吐露したものというべきものだ。私は、そんなこととも知らず、きいたのだった(たしかミュンヘン・フィルハーモニーの演奏会で、指揮はカイルベルト、リサ・デラ・カーサの独唱だったと思う。当時ミュンヘンに留学中の中山悌一夫妻やその先生のゲルハルト・ヒュッシュといっしょだった)。
もうおわかりだろう。前年からアメリカとヨーロッパを回って貪欲に演奏会とオペラ通いを続けていた人物といえば、吉田秀和をおいてほかにない。まだ四十代になったばかりの頃だ。
証言はさらにこのように続く。
音楽も初めてなら、歌詞もよく知らなかった。しかし始めから何か様子が変なのだ。シュトラウス特有の華やかなオーケストラの音響と、よくのびる──しかし、驚くほどこまかな曲折をもって、方向転換しながら、進んでゆく──旋律の音楽を楽しんでいるつもりでいると、急に、響きに暗い翳が射し、つい今まで軽かった音が重く下へ下へと沈んでゆく。
ことに第三曲目からは、ホルンの温かな慰めるような音色でさえ、もう明らかに、沈鬱なものに変わり、何というか、音楽が目にみえない病気に冒されてゆくような感じになる。
それに、私ばかりでなく、まわりの聴衆の雰囲気も、ぐっと重苦しいものになってくるのが、肌で感じられる。
このあと吉田は第四曲「夕映えに」の、死を想う歌詞の一節を引用している。回想はさらにこう続く。
曲が終って、しばらくは拍手もなく、会場は粛然と静まりかえっていた。まわりのドイツ人たちは完全に叩きのめされた自分たちの国と自分たちのこと、死んでいった人々の数えきれないほどの数、そうして自分の悲しみのことも、死の思いに重ねて、考えていたのかもしれない。何しろ、会場を出れば、まだ破壊され、破損した家や街路のあとが、いたるところ、生々しく残っていた時代だったのだ。自分の死を隣人の死と簡単にわけて考えるのが、まだ、むずかしい時だったのである。
さすがの文章である。この真率な記述を読むと、そのときデラ・カーサは《四つの最後の歌》を今行われているのと同じ曲順、すなわち「春」「九月」に続けて、三曲目に「眠りにつこうとして」を歌ったのだ、とそう信じそうになる。
しかしながら、これはあくまでもこの文章(キリ・テ・カナワが同曲を歌うLDについて記したもの)が執筆された1992年の時点での回想であり、細部まで真実であるという保証はどこにもない。吉田のこの手の回想のほとんどがそうであるように、これは三十八年前の朧げな記憶を、確かな裏付け(プログラムや当時のメモなど)なしに、いわば「後知恵」で補って書かれた文章なのである。ちなみに、ここまでの引用は初出の『レコード芸術』でなく、加筆のうえでまとめられたエッセイ集『音楽のある場所』(新潮社、1995)から行った。
1954年といえば、デラ・カーサがこの曲をLP録音したわずか一年後のこと。その彼女が早くも方針を転換して、楽譜どおりの曲順でこれを歌ったとは、ちょっと考えにくいのである。
吉田の証言はこの曲が当時ミュンヘンでどのような環境下で人々に受け止められたかを書き留めたドキュメントとしてはすこぶる貴重だが、肝腎の音楽の細部については、根も葉もない捏造とまでは言わないまでも、その記述をそっくり鵜呑みにすることはできない、残念ながら。
デラ・カーサの解釈の変遷を知るには、欧米各地の放送局のアーカイヴに残されている彼女の実況録音を発掘して、それらを時代順に聴き比べてみるほかない。だが、小生にそんな機会が巡って来ようとは到底思えない。
この件について追究するのをほとんど諦めてかけていた矢先のこと、途方もないニュースが伝わってきた。
デラ・カーサが1958年にザルツブルク音楽祭で歌った《四つの最後の歌》の実況録音が発掘され、それがCD化されるというのだ。伴奏はウィーン・フィル、指揮はカール・ベーム。53年のLPと全く同一の顔ぶれによる、それから五年後のライヴ演奏なのである。
(つづく)