橋本治とは大学の研究室で一緒だったことがある。1973年だったか、当方が進級したての三年生、彼は学部を卒業して大学院に進もうとしている研究生の身分。年齢はあちらが四つほど上だった。
当時の彼は北斎の版画や挿絵本を素材に、その構図法の原理を突き止めようとしていたと記憶する。傍からみていて、ずいぶん無理のある所論だなあと小生は訝しがったが、日本美術史の担当教授は目を細めて「面白い、面白い」と手放しで褒めていた。依怙贔屓である。
なにしろ当時すでに彼は有名人だった。「とめてくれるなおっかさん 背中 [せな] のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」なるコピーを伴う学園祭ポスター(→これ)を描いた人として、学内では知らぬ者なき特別な存在だったからだ。
その後、彼は大学院進学をきっぱり諦め、イラストレーター兼作家の道を選んだ。その後の目覚ましいキャリアは誰もが知るとおりだ。小生もまた大学を辞め、十年ほど流浪の下積み生活を送るが、それはまた別の話だ。
彼は昔からとにかく手先の器用な人で、セーターはすべて自分でデザインし、手編みしていた。この竹内まりやのLPアルバム《Miss M》(1980)のジャケット(→これ)が彼の編物の写真なのは知る人ぞ知る事実だ。
平賀源内や司馬江漢に勝るとも劣らぬ破格の天才、「非常の人」の死を心から悼む。あんな凄い人は二度と出ないだろう。