音楽学者ヴィータウタス・ランズベルギスがソ連の支配に抗してリトアニア改革運動「サユーディス」を率いたばかりか、独立回復後のリトアニア最高会議議長に選ばれたのは、思わず目を瞠るような出来事だった。
チュルリョーニス研究という地道な分野に携わってきた音楽学者がリトアニアの初代国家元首になってしまうなんて、誰が予想しえただろうか。
その第一報に接したジョナス・メカスもまた、驚きを隠そうとせず、こう言い放ったという。「ランズベルギスがリトアニアの国家元首に就任するなんて、信じられないことだ。譬えてみればマルセル・デュシャンがフランスの大統領になるようなものさ!」。
メカスがこう言明したのには正当な理由がある。ランズベルギスには篤実な音楽学者としての業績のほかに、意外なことにアヴァンギャルド芸術の共鳴者という「もうひとつの知られざる貌」があったからだ。
ランズベルギスにはカウナスでの小学生時代、ユルギス・マチューナス(Jurgis Mačiūnas)という竹馬の友がいて、教室では机を並べて学んだという。この友人こそはやがてメカスの大親友となり、ニューヨークで前衛芸術グループ「フルクサス Fluxus」を創設したジョージ・マチューナスその人なのだ。
遠く離れていても、幼馴染の二人は連絡を常に絶やさなかった。それどころか、マチューナスの冒険的な企てに賛同したランズベルギスは、リトアニアに留まったまま「フルクサス」の国外メンバーに名を連ねていたのである。メカスとも強い連帯感で結ばれていた。
メカスが二十七年ぶりに帰郷したときの記録映画《リトアニアへの旅の追憶》(1972)で、懐かしい村を訪れて母親と再会する場面の背後に静かに流れていたのはチュルリョーニスのピアノ曲であり、それを弾いたのがランズベルギスだという一事からも、メカスとランズベルギスとの縁(えにし)の深さが想像できるだろう。
ランズベルギスのチュルリョーニス評伝が『チュルリョーニスの時代』(佐藤泰一・村田郁夫 訳、ヤングトゥリープレス、2008)として邦訳される際、何か序文になるものをと版元に乞われたメカスが「リトアニアはチュルリョーニスである Lithuania is Čiurlionis」と題する熱っぽい頌詩を送ってきたのは、永年にわたるメカス=マチューナス=ランズベルギスの麗しい友情に報いるためだったのである。
その最後の連を引く(邦訳/ガビヤ・ズカウスキエネ+村田郁夫)。
ありがとう、ヴィータウタス・ランズベルギス。
日本にチュルリョーニスを紹介してくれて。
チュルリョーニスは日本に愛すべき場所を見つけるだろう。
わたしにとって日本もまた汎神的な国であり、
わたしたち、日本とリトアニアはとても親密だからだ。
日本にいると、わたしはいつもわが家にいる心地がする。
追記)
ランズベルギスがメカスの死を悼む最新記事(→これ)。「リトアニアは最も大切な人物を失った。その生命を、その肉声を、その証言を」。