「幻のロシア絵本 1920~30年代」展の開催はどうにも気が進まなかった。
四半世紀にわたり戦前のロシア絵本を密かに蒐集していたが、まだまだ拙コレクションは不充分だったし、ロシア語の習得も覚束ない。ロシア・アヴァンギャルドと絵本との関係についても不明なことばかり。老後にしっかり勉強してから満を持して取り組む心づもりでいたのだ。
ところが芦屋市立美術博物館に吉原治良(よしはらじろう)旧蔵のロシア絵本が八十七冊も遺されていることを知り、学芸員の河﨑晃一さんから「ぜひ一緒に展覧会をやりましょう」と強く誘われて、半ば不承不承ながら監修を引き受けたのである。決して自ら率先してではなかった。
ロシア絵本で本当に展覧会が成立するのか覚束なかったし、鑑賞者の共感が得られる自信もなかった。なにより、鍾愛の絵本たちを自分だけの愉しみに留めておきたい願望が根強く蟠っていた。広く世に知られてしまえば、競争相手を増やすばかりだというコレクター特有の独占欲と秘密主義に捉われていたのである。
展覧会開催は2004年から翌05年にかけて、芦屋市立美術博物館、足利市立美術館、東京都庭園美術館、北海道立函館美術館、大分市美術館、下関市立美術館と全国六会場を巡回し、思いがけず多くの来館者から驚嘆と称賛の言葉を頂戴した。言ってみればキュレイター冥利に尽きたわけだが、反面コレクターとしては「これでもうお終いだ」という複雑な心境だった。美術館で展示してしまうと、これらの絵本の美術的・歴史的価値は確定してしまい、もう安価で手に入れる機会は巡ってこないだろう。自分で自分の首を絞めてしまったのである。
展覧会をスタートさせて驚いたのは、すぐさま『芸術新潮』編集部から連絡があり、ぜひこれで特集を組みたいと言ってきたことだ。それも巻頭の七十頁を飾る大特集と聞いて耳を疑った。この雑誌の巻頭特集といえばレンブラント、ゴッホ、北斎、若冲といった大物と相場が決まっており、少し前に(ミッフィ絵本の)ディック・ブルーナが採り上げられていたものの、「誰も知らない」ロシア絵本が特集されるなんて嘘だろう、そんな莫迦な、と訝ったのだ。
『芸術新潮』編集部は仕事が素早く実に熱心だった。すぐさま独自の構成プロットを組み立て、巡回先の足利市立美術館に乗り込んで、閉館後に大がかりな撮影を敢行するとともに、監修者である小生にロング・インタヴューを行う手筈が整った。矢来町の新潮社の一室で、問われるままに十時間ほどしゃべっただろうか。一日では語りきれず、翌日また出向いて続きを語ったように記憶する。
編集部からの最後の質問は「どのようにしてロシア絵本と出逢ったのか」。そも馴れ初めについてだった。「恋して蒐めて四半世紀」と題された本文の冒頭を引く。
[…] いまから25年前、東京・中野の古本市でロシア絵本の山を見つけて、どうにも野暮ったくて印刷も悪いなと思ったけど、とにかく1冊100円で安いから、そこにあった11冊全部買いました。そしたら、そのうち戦前の2冊だけはとてもよかった。それがコナシェーヴィチの『火事』とチャルーシンの『自由な鳥たち』だったんです。はじめにこのふたつの傑作と出会ったのが決定的でしたね。
戦後の絵本はみな駄目で、古いものが断然いい。なぜそうなのかはわからない。ロシア・アヴァンギャルドという言葉すら知らなかった25年前のぼくにとって、ロシア絵本の何たるかを理解するすべもなかったけれど、自分の感覚を信じて、とにかく見つけたら迷わず買いつづけた。[…] ――『芸術新潮』2004年7月号
ここで云う「いまから25年前」とは2004年を起点とした話だから、正確には1980年のことだ。現今からは三十七年前になる。上のインタヴュー内容は概ね事実そのままだが、話の都合上やや簡略化して語ったところがあるので、ここで今少し正確に事の次第を記しておきたい。耄碌して記憶が雲散霧消してしまわぬうちに。
1980年当時、小生は練馬区のアパートから目黒区の大学生協に通ってバイトに精を出しつつ、同時に叔父と一緒に古本屋を開業するつもりで、せっせと古本収集に励んでいた。といっても乏しい懐具合と相談しながら、一冊百円から二百円、せいぜい五百円どまりの慎ましい蒐書活動にすぎなかったが。
たまたまこの時期の手控帖が残っている。そこから「中野の古本市」、すなわち中野サンプラザ前広場で開催された青空古本市での購入記録を書き写してみる。
4月26日(土) (中野)
ギヨ ミシェルのかわった冒険 300
マトゥーテ ユリシーズ号の密航者 300
ジョージ コパー川のかわがらす 200
カッタン 深夜の急行列車 300
マシキン 青い海・白い船 300
クラーク 魔神と木の兵隊 300
C・S・ルイス ライオンと魔女 300
クリュス あごひげ船長九つの物語 300
クリュス 風のうしろのしあわせの島 300
リンドグレーン 名探偵カッレとスパイ団 300
リンドグレーン 親指こぞうニルス・カールセン 250
ミルン クマのプーさん+プー横丁にたった家 250
マックロスキー ゆかいなホーマーくん 200
パウケート さすらいの少年 250
ラダ きつねものがたり 200
ディヤング 白ネコのぼうけん旅行 200
スレイ 黒ネコの王子カーボネル 200
グリム おいしいおかゆ 150
グリム ホレおばさん 150
グリム 一つ目二つ目三つ目 200
岡野薫子 銀色ラッコのなみだ 100
ロフティング ドリトル先生航海記(2) 200
宮沢賢治 銀河鉄道の夜 300
宮沢賢治 風の又三郎 300
サン=テグジュペリ 星の王子さま 300
いぬいとみこ みどりの川のぎんしょきしょき 300
ケストナー エーミールと探偵たち 150×2冊
ワイルダー 大きな森の小さな家 300
―― 『日本児童文学』1978年9月号(いぬいとみこ特集) 250
石森延男 コタンの口笛(1) 100
バーマン アライグマ博士と悪党たち 100
ガリコ ハリスおばさんパリへ行く 100
パイル 続ロビン・フッドの愉快な冒険 100
ローベル とうさんおはなしして 200
與田準一 五十一番目のザボン 100
サンチェス=シルバ ルイソの航海 150
リュートゲン 謎の北西航路 350
ルイス 魔女とライオンと子どもたち 150
石森延男 パンのみやげ話 150
ランサム 六人の探偵たち 350
エステス 黄色い家 150
いしいももこ・あきのふく いっすんぼうし 100
ウェルフェル こんにちはスザンナ 150
ローベ リンゴの木の上のおばあさん 200
カールソン 橋の下の子どもたち 150
ブリューノフ ババール(講談社シリーズ)2~6 200×5冊
ブリューノフ 同上 2、3、6 150×3冊
Ungerer The Mellops Go Diving for Treasure 100
Ross & Mortimmmer English Fashions (Puffin, 1950) 200
Badmin Village and Town (Puffin, 1948) 200
Thomas & Sikes Pottery and Its Making (Puffin, 1950) 200
五島謹一(編) イソップ名画集(ドレ画) 200
マルシャーク Пожар (1932) 100
チャルーシン Вольные птицы (1931) 100
マルシャーク+レベジェフ Сказка (1953) 200
チャルーシン Шутки (1954) 200
トルストイ+レベジェフ The Three Bears 200
エ・ラチョーフ テブクロ(日本語版/1956) 200
ビアンキ+チャルーシン Первая Охата (1954) 200
―― 『エナジー対話』1, 2, 4, 5, 6, 7. 9, 14 200×8冊
―― 『エナジー対話』11(高橋康也+樺山紘一) 250
―― 『エナジー叢書』健康論序説 200
富岡多恵子 女子供の反乱 300
斎藤隆介 続・職人衆昔ばなし 500
ヨネヤマママコ 砂漠にコスモスは咲かない 150
深沢一夫 学校なんか知るもんか 200
戸村一作 闘いに生きる 300
三留理男(編) 大木よね 100
デュードニー パズルの王様(1) 100
田中・北條・山下 森永ヒ素ミルク中毒事件 200
遠藤周作ほか 愛犬記 300
ヘディン 中央亜細亜探検記 200
Carlo Carrà Derain (1921) 200
Brillant Maurice Denis (1929) 300
ファウルズ 魔術師(1) 300
モーガン 泉 200
フリッシュ アテネに死す 200
プルウスト スワン家の方(1)(三笠書房、1937) 100
ルナアル ルナアル日記(1) 300
デュアメル 希望号の人々 100
ドーデー アルルの女 ほか(選集2) 200
デュアメル サラヴァンの生活の冒険(1) 100
ラーゲルレーヴ 沼の家の娘 200
サルトル 水いらず・壁(1946) 100
エイメ 緑の牝馬 100
モンテルラン 欲望の泉のほとり 300
ジロドゥ シュザンヌと太平洋 300
ケストネル ファビアン(旧版) 200
ネイサン 川をくだる旅 200
ヴォイニッチ うま蜂 200
クラーク 宇宙のオデッセイ2001 100
ブラッグ 音の世界 100
朝永振一郎 科学と科学者 300
グリモー ラヴォアジエ伝 200
ドゥ・ブロイ 新物理学と量子 200
インフェルト 物質の神秘 200
寺田寅彦 天災と国防(岩波新書) 100
カーソン 生と死の妙薬 200
山田宗睦 ろくろの唄 250
―― Hamlet(パンフレット) 200
ふう、くたびれた、書き写していて我ながら呆れ果ててしまう。これは一体どういうことか、一時に百十四冊もまとめ買いしている。叔父との古本屋開業を目指して、よほど焦って必死だったのだろう。とても尋常な買い方ではない。
児童書と海外文学を中心に、安価な古書を手当たり次第に拾い上げた趣だ。いずれ売るための蒐書だから、ほとんどを手放してしまい、現在も手元に残るのは『ライオンと魔女』の別訳で、今や稀覯本となったC・S・ルイス『魔女とライオンと子どもたち』(前田三恵子訳、あかね書房)など、ほんの数冊にすぎない。
そのなかにロシア絵本が七冊たまたま含まれていた。いずれも「安芸書房」の出品である。中央線のどこで店を構えていたのやら、訪れたことは一度もなく、さすがに今は廃業してしまったようだ。その日、せっせと買い漁っていた小生は、上のインタヴューでも答えたように、「どうにも野暮ったくて印刷も悪いなと思った」ものの、なにしろ安価だったから、深く考えず七冊を咄嗟に買物籠のなかへ放り込んだ。それがわが運命を変える重大な契機になろうとはつゆ思いもせずに。
インタヴューでは「とにかく1冊100円で安いから」と述べているが、正確には一冊百円と二百円と、値付けは二種類あった。ただし戦前の二冊、『火事 Пожар』(1932)と『自由な鳥たち Вольные птицы』(1931)はいずれも百円だった。
懲りない小生は、三日後の天皇誕生日にも中野の古本市を再訪した。きっと棚や平台のあちこちで追加本が品出しされると考えたのだ。この勤勉ぶりは若さの証だろう。なにしろまだ二十七歳だったのだ。その日の記録を見よう。
4月29日(祝) (中野)
リンクレーター 緑の海の海賊たち 200
Kästner+Lemke Don Quichotte 500
ホフマン(絵) ポーランドのむかしばなし 200
ブラトフ Теремок (1957) 200
ビアンキ+チャルーシン Мишка-Башка (1953) 200×2冊
ブラトフ Гуси-Лебеди (1954) 200
ゴーリキイ+チャルーシン Воробьишко (1956) 200
Edward Our Cattle (Puffin, 1948) 200
―― 『ひかりのくに』 150
武井武雄 みつばちのくに(『キンダ―ブック』) 450
ペール・カストール画帖 Cachés dans la forêt (1957) 200
ネムツォヴァ おばあさん(旧版) 100
ヴェルヌ 地底の冒険 100
―― ウイークエンド(ATGパンフ) 300
ブールデル ロダン 300
オオドゥ 街から風車場へ 200
ミュッセ 世紀児の告白 200
ラーゲルレーヴ 地主の家の物語 100
プラトリーニ 現代の英雄 300
シュニッツレル 輪舞 100
さすがにもう買い足すものは少なかった。めぼしい品は売れてしまい、追加アイテムも期待したほど並ばなかったのだ。それでも児童書と翻訳文学を中心に二十冊余。そのなかにロシア絵本が四点(ダブりも数えれば五冊)含まれていた。前回同様どれも「安芸書房」の出品。ただし、今回はみすぼらしい戦後の絵本ばかりだ。それでも拾い上げたので、前回分と併せれば十一点(十二冊)になる。
忘れずに付言しておくと、同じ「安芸書房」の平台には、戦中から戦後すぐにかけて英国で出た石版刷りの知識絵本シリーズ「パフィン・ピクチャー・ブック Puffin Picture Books」も無造作に置かれていたので、ついでにそれらも拾い上げた(二日分併せて四冊)。これらが戦前のロシア絵本の強い感化を受けて制作・刊行されたという歴史的事実なぞ、当時の小生は全く知る由もなかったのだが。
さらにもうひとつ、4月26日の購入書目に寺田寅彦の随筆集『天災と國防』(岩波新書 赤版、1938)が含まれていたのも、今にして思えば不思議な暗合である。なぜなら、この本には「火事教育」というエッセイが再録されており、そこに寺田が1933年に銀座の即売会でロシア絵本『火事』を買い求め、熟読のうえ大絶賛するに至る顛末が生き生きと記されているからである。
同じ26日、小生はほかならぬそのロシア絵本『火事』の現物を、それと知らずに古本の山のなかから発掘していたのだから、偶然にもほどがあると云いたくなる。これらすべての出来事の連鎖は、寄ってたかって小生を戦前のロシア絵本へと誘っているかのようだ。運命の導きとはこういうものなのだろう。