重い足取りで階段を上がり改札から出ると、本郷三丁目駅前は異様に混雑している。しかも全員が若い男女。どこか近傍の大学で学園祭があるらしい。織るような人の波をかいくぐって表通りにでる。まだ朝の十時過ぎというのに真夏のような暑さだ。昨日のレクチャーの疲労がまだ蟠っていて全身がだるい。
信号を渡って少し行ったあたりの花屋の角を左に折れ、さらに少し進んだあたりに「金魚坂」の看板が見えた。その名のとおり、ここは金魚屋なのだが、しゃれたカフェレストランが併設されている。今日は十一時からここでサロン・コンサートが開催される。リハーサル中なので扉の外でしばし待つ。それにしても暑い。額から汗が滴り落ちる。開場時刻まで少し間があるので木蔭に腰掛けて休憩。
《カフコンス》第126回
オーヴェルニュの山にて
2017年5月21日 午後11時~12時
東京・本郷「金魚坂」
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ジョゼフ・カントルーブ:
《オーヴェルニュの歌》 より
■ バイレロ Baïlèro
■ 羊飼いの娘よ、もしお前が僕を好きなら Postouro sé tu m'aymo
■ 行け! 犬よ、行け! Tè l’co tè !
ヴァイオリンとピアノのための 《山にて Dans la montagne》
1. 風の中で(前奏曲) En plein vent (Prélude)
2. 夕べ Soir
3. 祭りの日 Jour de fête
4. 春の森にて~在りしものへ
Dans les bois au printemps -- Vers l'absente
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ソプラノ/渡辺有里香
ヴァイオリン/本郷幸子
ピアノ/川北祥子
入場するなり、リハーサルを終えた川北さんと出くわす。咄嗟に「外は暑いですよ」と声をかけると、「山の音楽で涼んでください」と返された。
そうなのだ、今日のコンサートの聴きものはジョゼフ・カントルーブの秘曲《山にて Dans la montagne》(1904~05)なのである。ヴァイオリンとピアノのための組曲(ソナタとも)というが、小生は寡聞にしてまるで知らない曲だ。
ここ「カフコンス」ではたびたびカントルーブが登場し、今日が七度目という。ただし採り上げられるのは決まって名作《オーヴェルニュの歌》、今回もまずその歌曲集から性格の異なる三曲が渡辺有里香さんによって歌われる。鍾愛の「バイレロ」が始まった途端、外の暑さは遠のき、清々しい高原の涼風が吹き過ぎる気がした。カントルーブの音楽のエヴォカティヴな魔法のなせる技か。
続く二作では牧人の素朴な恋情や放牧生活の一齣が瑞々しく活写される。渡辺さんの歌唱はそれらの内容を実によく弁えた見事なもの。「バイレロ」では階段の高低差を利用して、山人たちが遠方近方に呼び交わすさまを巧みに描写する趣向もよかった。今いるここはもう灼熱の都心ではなく、空の澄みわたったオーヴェルニュ高地さながらの爽やかさだ。
今日のプログラムは前述のようにこのあとが本命である。
カントルーブ二十代半ばの出世作、ヴァイオリンとピアノのための組曲《山にて》。プログラム冊子の解説文を引かせていただくと、「『
山にて』は、書簡で師ダンディの助言を受けながら故郷 [=オーヴェルニュ]
で完成させた野心作。フランクからドビュッシーまで思わせる様々な書法を試しながら、全4曲(4楽章)は循環形式的に用いられた民謡風のモティーフによって統一されている」。
第一曲「風の中で」の冒頭からただちに惹き込まれる。しみじみ心に滲むような旋律。穏やかな曲想のなかに、なんとも形容しがたい懐かしさや仄かな憧れが去来して、聴いているともう胸が一杯になる。ここだけでもお聴きいただこうか(
→当日と同じお二人による別録音)。
一番乗りだった小生の席は奏者のごく近く、ヴァイオリンが目の前一メートル以内の至近距離にある。弓に触れてしまいそうでどぎまぎした。奏者の本郷幸子さんは初めて聴くが、確かな腕前と個性的な音色をもった人だ。やや渋く燻し銀のような、むしろヴィオラに近い響きがカントルーブの旋律にとても似つかわしい。ときにたっぷり歌わせるが、音楽はあくまでも気品と自然な流れを保つのがなによりも好もしい。いい奏者だなあ。
組曲《山にて》は全四曲、三十分ほどを要する(「カフコンス」的には)かなりの大曲なのだが、うっとり聴き惚れていると瞬く間に半時間が過ぎた。
こよなく美しい旋律が次から次へと惜しげもなく投入され、それが美点とも短所ともいえようが、カントルーブの魅惑がそこにあることは間違いない。終曲の冒頭に《オーヴェルニュの歌》の「バイレロ」そっくりの主題が出てきた気がするが、夢うつつだったので定かではない。
アンコールは三人の出演者が揃って、《オーヴェルニュの歌》から「女房持ちはかわいそう Malurous qu'o uno fenno」。ヴァイオリンのオブリガート付き(今回のための独自編曲か)で愉快に歌われて幕。客席はいつになく混み合い、定員三十が満席になったのは慶賀である。開演が少し遅れたが、十二時少し前に終演。
書きそびれていたが、すべての曲でピアノを担当された川北祥子さんはフランス近代音楽に抜群の適性をもつ。いつもながらの明晰で的確な伴奏によって、カントルーブの音楽を支えていた。今回の選曲もおそらく彼女の発案になるものだろう。いつも思うことだが、「カフコンス」の会が聴けるのは首都圏に住む音楽好きの誇りとするところだ。
階段を上りドアを開けて表に出ると、オーヴェルニュの幻影を吹き消すような熱気にたちまち包まれた。今日は真夏日になるだろう。