ベルトルト・ブレヒトは1933年2月28日、入院中の病院を密かに抜け出し、妻と息子を伴って列車で国外へ脱出した。ベルリンで国会議事堂放火事件があった翌日である。
ブレヒトは隠れもない社会主義の共鳴者であり、その過激な言動はナチス当局から常に目の敵にされていたし、女優の妻ヘレーネ・ヴァイゲルはユダヤ人だったから、危険が目前に迫ったのを察知したのである。
こうして戦争を挟んで十五年に及ぶブレヒトの亡命生活が始まった。プラハ、ウィーン、チューリヒ、デンマークのスヴェンボル、ストックホルム、そしてヘルシンキ。
家族と協力者の一団を引き連れ、ブレヒトは行く先々で戯曲を書き続け、上演を目論んだが、いずれの企ても暗礁に乗り上げる。自分の劇場と劇団を失った劇作家ほど惨めなものはない。
1941年にはヨーロッパ全土に版図を拡げるナチズムから逃れ、ブレヒトは旧知の演劇人が集うモスクワを目指すが、スターリン治下のソ連もまた彼にとって危険な場所だった。ほどなくシベリア鉄道でウラジオストクにたどり着き、船でアメリカ合衆国へ渡った。
腰を落ち着けたのは、カリフォルニア州サンタモニカ。ここに小さな寓居を構えた。ハリウッドで脚本家として糊口を凌いでいれば、うまくするとブロードウェイで自作が舞台にかかるかもしれない。
しかしながらブレヒトのアメリカ時代は不遇の一言に尽きる。戦前に世界的な大ヒット作となった《三文オペラ》も、ここアメリカではさっぱり人気が出なかった。彼は一部の演劇人にのみ知られる孤高の存在だったのである。頼みの綱のハリウッドも、ブレヒトの演劇理念とは水と油だったから、脚本の売り込みも捗々しくなく、同じ亡命者のフリッツ・ラング監督が《死刑執行人もまた死す》に彼のシナリオを採用したに留まった。
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こうしてカリフォルニアで屈託した日々を過ごすブレヒトに、思いがけない出逢いが待ち受けていた。英国出身の俳優で、当時ハリウッドで目覚ましく活躍していた銀幕の大スター、チャールズ・ロートンとの遭遇がそれだ。ロートンはかねてから劇作家ブレヒトの才能に心酔しており、「まずシェイクスピアがいて、そのあとにブレヒトが現れた」とまで公言して憚らなかった。
ブレヒトとロートンは1944年3月、共通の知人がサンタモニカの自宅で催したパーティで知り合ったらしい。彼らは直ちに意気投合した。それはロートンにとって「現代のシェイクスピア」との邂逅であり、ブレヒトにとっては亡命中ずっと書き継いできた一本の芝居の主人公に、まさしくうってつけの役者(それも世界的な名優)を得た思いがしたのである。
ロートンは1939年の《ノートルダムの傴僂男》を皮切りに何本かのハリウッド映画に出演したのち、1943年ジャン・ルノワールに乞われてRKOの反ナチ映画《この土地は私のもの》に主演した。ブレヒトとの運命的な出会いはその翌年である。亡命劇作家はすでに彼の主演映画を何本も観ていて、「この男こそ自分が求めていた役者だ」と直覚していたのだという。
ブレヒトがロートンに主役をやらせたいと希った芝居とは《ガリレイの生涯》である。亡命先のデンマークで1938年に書かれ、1943年9月チューリヒで初演された。ただし、ブレヒトはすでにアメリカにおり、上演には立ち会えなかった。本当の初演はこれからだ、との思いに駆られたことだろう。
それにブレヒトはこの芝居を全面的に書き直したかった。その契機となったのは1945年8月、広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾である。
この非道な無差別殺戮に衝撃を受けたブレヒトは、この蛮行にすぐさま反応し、科学者の果たすべき社会的な役割、とりわけ科学者と時の権力者との関わりに深く思いをめぐらせた。こうして、過去の大天文学者の伝記劇は、科学者の良心と行動規範をめぐるアクチュアルなドラマへと大きく変貌を遂げることとなった。
このとき、改作の一部始終を傍らで見届けたのがチャールズ・ロートンである。すでに新版《ガリレオ》の主役はロートンにと思い定めていたブレヒトは、その生身の身体と肉声を通して、新たにリアルなガリレオ像を現出させようと努めたのだ。
ロートンにはドイツ語が片言隻句さっぱり理解できなかったので、ブレヒトは書き改めた台詞をひとつひとつ、独英辞典の援けを借りて不器用な英語に逐語訳して、それを聞きながらロートンが正しい英語に改めていくという、粘り強くも稔り多い共同制作が続けられた。
改訂作業はもっぱらサンタモニカのロートン夫妻の豪勢な邸宅で行われた。連日ブレヒトが吐き出す葉巻の煙でたちまち部屋中が臭くなるのに、妻のエルザはさすがに辟易したそうな。
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こうしてブレヒトとロートンとの足掛け三年に及ぶコラボレーションは英語版《ガリレオ》として結実し、1947年7月30日、ロサンジェルスに新設された275席の小ぶりなコロネット劇場(Coronet Theatre)で世界初演される運びとなった。
手元にあるコロネット劇場のプログラム冊子から、主要な部分をここに書き抜いておこう。
》PROGRAMME《
THE CORONET THEATRE
Presents
The World Premiere of
T. EDWARD HAMBLETON'S PRODUCTION
Starring
CHARLES LAUGHTON
in
GALILEO
by BERTOLT BRECHT
English adaptation by Mr. LAUGHTON
Staged by JOSEPH LOSEY
Settings and Costumes by Robert Davison
Choreography by Lotte Goslar
Music by Hanns Eisler
Lyrics adapted by Albert Brush
チャールズ・ロートンの名が作者ベルトルト・ブレヒトよりも大きく、太字で印刷されている。英語の翻案がロートン自身の手になることも謳われている。これはブレヒトの新作であるより前に、銀幕の立役者ロートンが主演を務める晴れの舞台なのである。
演出家(むしろ舞台監督と称すべきか)として若きジョゼフ・ロージーの名がここに記されているのも感慨深い。ロージーは演劇青年として1930年代に訪ソした際、モスクワでブレヒトの知己を得ていたのだ。
付随音楽はドイツからの亡命者でブレヒトの信頼も厚いハンス・アイスラーが担当したが、ここでの扱いはごく控えめだ。
出演者については登場順の全リストもあるが、ここでは主な配役のみを記した "Who's Who in the cast" から順に引く。
ガリレオ:チャールズ・ロートン
バルベリーニ枢機卿:フーゴー・ハース
娘ヴィルジーニア:フランセス・ヘフリン
哲学者:モーガン・ファーリー
ロドヴィーコ:ハーバート・アンダソン
老いた枢機卿/密告者:ピーター・ブロッコ
異端審問官/街の布告役:ウィリアム・D・コットレル
サルティのおかみ:エダ・リース・メリン
フェデルツォーニ:デイヴィッド・クラーク
小柄な修道僧:ミッキー・ノックス
門弟アンドレア:ウィリアム・フィップ
初演の宵はロートン久々の舞台出演を観ようと多くの観客で賑わった。西海岸という土地柄、客席にはハリウッドからチャールズ・チャップリン、シャルル・ボワイエ、イングリッド・バーグマン、アンソニー・クイン、ジーン・ケリーといった銀幕スターたち、ルイス・マイルストーン、ビリー・ワイルダーら映画監督が詰めかけた。客席の熱狂ぶりは凄まじく、この晩をはじめ十七公演すべてがチケット完売となった由。
初日ではなかったらしいが、ストラヴィンスキーも《ガリレオ》を観劇し、アイスラー宛ての手紙で「貴君の《ガリレオ》の音楽がどれほど私を愉しませたことか。コロネット劇場に二度も足を運びました」と称賛している。
千穐楽は8月17日。ちなみに小生が架蔵するプログラム冊子は旧蔵者不詳ながら、8月14日の日付入りの半券が二枚挟まっていた。
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地元の新聞の批評は必ずしも芳しくなく、ブレヒト独自の作劇術が理解されたとはとても思えないが、ブレヒトもロートンもコロネット劇場での初演に手応えと充足感を覚えていた。もともとロサンジェルス公演は真夏のオフシーズンということもあり、本格的な舞台上演のための「試演」の意味合いが強かった。関係者が目指していたのは、言うまでもなく《ガリレオ》のブロードウェイ進出である。
ほどなくニューヨークでのスケジュールが決まった。劇場は39丁目のマクシン・エリオット劇場(奇しくも十年前、マーク・ブリッツスタインの労働者ミュージカル《揺籃は揺れる》がオーソン・ウェルズ演出で初演される予定だった小劇場である)、初日は12月7日と定められた。ロートン以外のキャストは入れ替わったが、スタッフはロサンジェルス初演時とほぼ同一である(アイスラーは同行できず)。
ところがブレヒトはこの栄えあるブロードウェイ公演に立ち会えない運命にあった。折りから全米に吹き荒れる赤狩りの嵐はついにブレヒトの身辺にまで及び、悪名高いワシントンのHUAC(非米活動委員会)から証言を命じられる。彼が議会下院の委員会に出頭し、自らと共産主義との関わりを否定した(むしろ言葉巧みに言い逃れた)のは10月30日のことだ。
もうこの国にはいられない。ここもまたベルリンやモスクワと同様、ブレヒトにとって安住の地ではないのだ。その晩、友人たちとラジオで自分の訊問の様子を聴いた翌日、彼はニューヨークの空港から電撃的に出国してしまう。
もちろん12月の《ガリレオ》ブロードウェイ公演を見届けることは不可能だ。ブレヒトはロサンジェルスで有能な演出助手として献身的に務めたジョゼフ・ロージーに後事を託し、後ろ髪を引かれる思いで旅立っていった。彼はもう二度とアメリカの地を踏むことはないだろう。
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さて――ここからが本論なのだが――かつてロサンジェルスで十数回、ニューヨークで数回、それぞれ上演されただけのチャールズ・ロートンによる《ガリレオ》初演の舞台を、七十年後の私たちは、果たしてどれくらい具体的に思い描くことができるのだろうか。
研究者の間では知られている事実らしいが、コロネット劇場での公演が続演中の1947年8月、ブレヒトの愛人の一人で協力者のルート・ベルラウ(Ruth Berlau)が劇場内で《ガリレオ》公演の模様を映画に収録し、三千枚(!)ものスチル写真を撮影していた。おそらくブレヒト自身の意を受けての行動であり、のちにこの芝居を再演する際に、有用にして不可欠な参考資料になると見越したのだろう。
あれは2000年頃だったろうか、赤坂の東京ドイツ文化センターにおけるブレヒト関連の催しで、そのベルラウ撮影の《ガリレオ》動画映像の一部を観る機会があったが、それはどうにも感動を抑えきれない体験だった。
客席後方に設置されたキャメラが舞台全体をフィックスで捉えたサイレント映像がただ続くだけだが、ロートンの存在感がなんとも圧倒的で、その巨躯がときに雄弁に、ときに繊細に動く無音の所作を観ているだけで、彼のガリレオが入神の演技だったことがひしひし実感される。ああ、これで彼の朗々たる台詞回しが聴けたら、どんなにいいだろう!
この密かな願いが天に届いたのだろうか。最近になって、思いもよらない音源がCD化されていたことに気づいた。
《"Dear Brecht ..." -- Charles Laughton, Bertolt Brecht, Hanns Eisler》
ハンス・アイスラー:
《ガリレオ》付随音楽(抜粋)
ハンス・アイスラー指揮 器楽&声楽アンサンブル
1947年7月、ベヴァリーヒルズ(リハーサル録音)
《ガリレオ》より 万愚節の場 街頭歌手のバラード
1947年12月、ニューヨーク(リハーサル録音)
チャールズ・ロートンからスイスのブレヒトに宛てた肉声による報告
1947年12月13日、ニューヨーク(私的録音)
ロートンの朗読(付随音楽:アイスラー)
■ ディケンズ『ピクウィック氏のクリスマス』
1944年9月5日、ハリウッド(デッカ録音)
■ 新約聖書より『最古のクリスマス物語』
■ 新約聖書より『三賢者の物語』
1944年9月、ハリウッド(デッカ録音)
ブレヒトの助言に基づくロートンの朗読の練習
■ 旧約聖書より『創世記』
1945年5月頃、サンタモニカ(私的録音)
Bear Family Productions BCD 16096 BS (2CDs, 2014)
→アルバム・カヴァー
このようなアーカイヴ音源が四年も前にCD化されていたことに、最近まで迂闊にも気づかなかった。これらは信じられぬほど貴重な、現存すること自体が奇蹟のような録音である。
最初に聴かれるのは、ロサンジェルスのコロネット劇場での《ガリレオ》初演に先立って、作曲家アイスラー自身が指揮した伴奏音楽のリハーサル録音である。全部で七部分、計十分に満たない収録音源がはたして付随音楽全体のどのくらいを占めているのか定かでないが、小編成のアンサンブルに時おり声楽が加わり、初演時の《ガリレオ》が瑞々しい音楽劇でもあったことを強く印象づける。
もうひとつ、これはアイスラー不在のもとブロードウェイ上演に先駆けて行われた第九場、万愚節の場面で歌われる「街頭歌手のバラード」(笠啓一による邦訳版『戯曲 ガリレオ』では107頁以降)も、負けず劣らず興味深い聴きものである。
そのあとに収められた録音こそは真に驚くべきドキュメントだ。
上述したように《ガリレオ》が1937年12月にブロードウェイに進出したとき、すでにブレヒトはHUACの訊問を経て、身に及ぶ危機を回避すべく10月末に米国を脱出し、スイスへ逃れていた。肝心のブレヒト不在のまま晴れの舞台を迎えることを余儀なくされたロートンは、おそらく不安と落胆を隠せなかったはずだ。いわば糸の切れた凧のような心境だったと推察される。
12月7日、マクシン・エリオット劇場で開幕した《ガリレオ》ニューヨーク公演は、ロサンジェルス初演時と同様、批評は芳しくなかった。劇評の大御所ブルックス・アトキンソンは「《ガリレオ》は小手先の作劇(fingertips playmaking)だ。舞台は耳に大袈裟に響く芝居(hokum)だらけ。この劇の語り口は、短いエピローグでブレヒト氏が述べる科学への謙虚で敬虔な祈りを少しも正当化しない」と斬って捨てた。
とはいえ、六回の公演は、ロートン人気も手伝って、いずれも満員札止めとなった。だがマクシン・エリオット劇場ではすでに他の公演で塞がっており、続演できる別の劇場も見つからなかったので、《ガリレオ》ブロードウェイ公演は12月18日にあえなく終演を迎えた。
チャールズ・ロートンは賛否両論の喧しいなか、初演から六日目の12月13日、ブレヒトに向けて詳細な近況報告を行う。それも書面にしたためるのではなく、じかに肉声を吹き込んだアルミ箔のSP盤をチューリヒ近郊フェルトマイレンに仮住まいするブレヒト宛てに送ったのである。
その貴重なディスク(おそらく五枚、十面に及ぶか)は友人イグナーツ・ゴルト(Ignaz Gold)の手で大切に保存され、2005年ベルリン芸術アカデミーのベルトルト・ブレヒト・アーカイヴに収蔵された。本CDにはその四十五分にも及ぶロートンの「肉声報告」のすべてが収められている。
ロートンはまず、遠くスイスのブレヒトに向け、少しためらいがちに "Ur..., Dear Brecht..." と語りかける。「今は12月13日土曜日の午後三時、私はカーネギー・ホールの録音スタジオに、ルート・ベルラウと、アンドレア役のニック・パーソフと一緒に来ています。われわれが [《ガリレオ》の脚本に] 加えた一、二か所の変更について、あなたにお伝えしようと思います」
親しみに溢れた、だが、どこか恥じらうような口調は、弟子が恩師におずおずと報告するような、いやむしろ、遠距離恋愛の相手にそっと語りかけるような響きがあり、聴いているだけで胸を打たれる。
ロートンは台本のさまざまな箇所で生じた問題点を逐一伝えるとともに、どこをどのように変更したいと考えたかを具体的に事細かに語っている。その過程で、あちこちガリレオの台詞を自ら朗読して聞かせるので、七十年後のわれわれは、ブロードウェイの舞台で彼がどのようにガリレオを演じていたか、その一端を生々しい肉声で聴くことができる。
最も感動的なのは、芝居も終盤に差しかかった第十三場で、異端審問所の囚われの身となった老ガリレオのもとに、かつての愛弟子アンドレア・サルティが訪ねてくる場面の朗読である。笠啓一による邦訳でそのくだりを引く。
アンドレア:お元気でお過ごしでしたか? ガリレイ先生。
ガリレオ:お掛けなさい。近頃はなにをしているのかね? どんなことに取り組んでいる? ミラノで水力学関係の仕事をしているとは聞いていたが。
アンドレア:アムステルダムのファブリツィウスが私に先生のところへ伺ってお体の具合をお尋ねするよう頼んできたものですから。
ガリレオ:私はすこぶる元気だ。
アンドレア:先生がお元気だと伝えることができて嬉しいです。
ガリレオ:そしてファブリツィウスには、私の深い後悔ゆえに私は比較的満足に生きておると伝えるといいだろう。
久しく合わなかった二人の会話はよそよそしいが、やがて昔の親しさが戻ってくる。そしてガリレオは決心したように、傍らの地球儀のなかから分厚い紙の束を取り出す。それは異端審問所の目を逃れて、密かに彼が書き継いでいた本の原稿である。
ガリレオ:サルティ君、私は君にちょっとしたものを進呈したい、と思う。お上は私を罰するつもりなのかもしれないが、私は悪癖が再発するのを恐れているのだ。
アンドレア:私はなるべくお邪魔はしたくありません。
ガリレオ:私は『新科学対話』を書き上げたよ。
アンドレア:なにを書き上げた、といわれました?
ガリレオ:『新科学対話』だ。
アンドレア:ここで!
ガリレオ:お上はよくわかっているのだ。大きな悪徳が一度に治ることはないとね。私はペンと紙とを許されている。もちろんかれらは、口述筆記が終わるはしから、その書かれた紙をすっかり取り上げてしまうのだが。
アンドレア:『新科学対話』がやつらの手にある! アムステルダム、ロンドン、プラハは、この本を死ぬほど欲しがっているというのに。
ガリレオ:バルベリーニはこれを疥癬と呼んだよ。彼も完全には免疫ができてはいないんだ。私は夜のうちにそれを写しておいた。それを人に渡すなんて愚の骨頂というものだろうがね。それはその地球儀のなかにある――私の愚かな虚栄心が今までそれを破り捨てることを妨げてきた。もし君がそれを持って行きたいと思うなら、その危険はすべて引き受けなければならない。イタリアの国境で調べられたら、君は教皇庁に保管してある原稿に近づけるある人物からこの写しを買った、といえばいい。
アンドレア:『新科学対話』だ!
こうしてガリレオが極秘裏に書き綴った「禁断の書」の原稿はアンドレアの手で密かに国外へと持ち出され、オランダのレイデンで刊行されて広く流布した。必ずしも史実どおりではないが、時の権力に屈しないガリレオの心意気を示す素晴らしい場面である。そこには期せずして、赤狩りの迫害を辛うじて逃れたブレヒト自身の姿も二重写しになろう。
ガリレオがアンドレアに語る長い独白は活字になったものと少し異同があるようだが、終わりの部分は現行版と同じである。
ガリレオ:[・・・] 科学者として、私はほとんど稀有の機会に恵まれていた。あのとき、天文学は町の広場のなかにまで進出した。あの特別のとき、一人の男が立ち上がって闘っていたら、大きな反響が生まれていただろう。サルティ君、私はあのときそれほど危険な目にはあっていなかったと思う。ある時期は私は権力者と同じくらいに強かったのだ、ところが私は降伏して知識を権力に差し出し、それがかれらの目的に従い勝手に悪用されることになってしまった。私は私の職業を裏切った。私がしたようなことをするものは、科学者の席に着くことは許されない。
いよいよアンドレアの出発のときがやってくるが、ガリレオは愛弟子が差し出した手を握ろうとしない。自分の手は穢れているからだ。
ガリレオ:君はいま人に教えているんだろう、ええ? その君が私の手を握ったりしていいのか? 通りすがりのだれかが、今日私に鵞鳥を贈ってくれた。私はいまでも食べることが好きでね。
アンドレア:それではいまのあなたのご意見では、新時代は幻想だったということなのですか?
ガリレオ:そうだな――わかったのは、われわれの時代は結局 [血で汚れた] 売女(ばいた)だった・・・
とここまで朗読したところで、ロートンはまだ台詞の繋がりの悪い箇所があちこち残り、正しい流れが見つけられないのだと告白している。
そして録音の最後で、彼はブレヒトに心のこもった挨拶を送る。
「では、親愛なるブレヒト、近いうちにまたご一緒しましょう。あなたの別の芝居を始めたくて、うずうずしています。それも、できるだけ早く。この地でのあなたの大成功を願っています。[・・・] 今日のニューヨークは好天です。私が今日これをやると知ったエルザ [=妻] があなたによろしくと申しています。バイバイ」
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こうして七十年の時を経て、われわれはチャールズ・ロートンとベルトルト・ブレヒトとの数年間の麗しい友情の賜物である《ガリレオ》を、その片鱗とはいえ、ロートン自身の声で聴くことができたのである。
この二枚組アルバムの後半では、《ガリレオ》に先立ち、ロートンが1940年代半ば、米Deccaに吹き込んだ演劇仕立ての朗読アルバムが覆刻されている。題材はディケンズと聖書。早くからシェイクスピア劇の舞台に立ち、英米で数多くの映画に主演したロートンにとって、英語による朗読は自家薬籠中のものだったに違いない。
にもかかわらず、彼はちょうど知り合ったブレヒトに、朗読術の基本について助言を求め、根本から自分の芸を見直そうとしていた。押しも押されもしない英国の名優が、英語の習得もまだ覚束ないドイツの演劇人に、英語の発語法について教えを乞うとはいかにも奇異なことだが、ロートンのブレヒトに対する心服の度合いはかくも深かったのである。
ハリウッドとブロードウェイに吹き荒れたマッカーシズムの嵐は、《ガリレオ》に関わった演劇人たちの運命を翻弄する。ブレヒトがHUACの訊問の直後に米国を去ったことはすでに述べたが、ブレヒトのもとで《ガリレオ》の演出補佐を担当し、ブロードウェイ公演では演出の全責任を担ったジョゼフ・ロージーは、映画監督として活躍を始めた矢先、共産主義との関わりを疑われてハリウッドを追われ、長くヨーロッパで苦しい映画製作を強いられることになる。
チャールズ・ロートンはやがて米国に帰化するとともに、かつてブレヒトやロージーのような左翼人と関わった体験を、苦い悔恨とともに振り返るようになった。「現代のシェイクスピア」とまで崇めたブレヒトとの共同作業は、不都合な真実、忌まわしい交友、忘れてしまいたい過去として、記憶の奥底にしまい込まれた。
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1956年8月14日、ブレヒトはベルリンで新演出の《ガリレイの生涯》上演を目前にして、心筋梗塞で急逝した。
すぐさま東ドイツの文化省から弔辞を求める電報がロートン宛てに送られた。これに狼狽したロートンは急いで弁護士に相談し、「赤い国から電報が届いた」旨、直ちにFBIに申し出たそうだ。こうして当局からお咎めがないのを確認したうえで、彼は恐る恐るブレヒトの遺族宛てに弔電を送ったという。冷戦という過酷な時代がそうさせたとはいえ、悲しい話である。