オルセー美術館をあとにセーヌの右岸側へ戻り、汗を拭いながら公園を横切って地下鉄テュイルリー駅へ。シャンゼリゼのパレードが終わったのだろう、この界隈も凄い混雑なので、東へ一駅だけ歩いてパレ・ロワイヤル/ミュゼ・デュ・ルーヴル駅で地下に降り、①番線になんとか乗り込む。四つ先のサン=ポール駅で下車。
この駅で降りるのはたぶん初めてだろう。ここからピカソ美術館までは徒歩で十分ほどだというが、マレ地区には土地勘がまるでなく、地図を頼りに曲がりくねった舗道を歩く。前に仕事で訪れたときはタクシーを利用したのだろうか、街区の記憶がさっぱり蘇らない。
ひょっとして道に迷ったかなと不安を覚えたそのとき、前方に広壮な石造りの古い館が現れ、それがオテル・サレ(Hôtel Salé)すなわち国立ピカソ美術館の建物だった。
受付でチケットを買う前に、まずは腹拵えだ。屋上にカフェがあるそうなので、エレヴェーターで上がると、その名も「屋根の上のカフェ Le Café sur le Toit」なる小食堂があり、ちょっとしたサンドウィッチとサラダ、飲物類がメニューにある。室内のテーブルかテラス席を選べるというので、白ワインの小瓶を手に迷わずテラスへ出た。よく晴れた夏の日、昼食は誰しも陽光とそよ風のなかで摂りたくなるものだ。
やがて供されたバゲットのサンドも、付け合わせのサラダも、食後の珈琲もそれぞれ美味しい。当方が空腹だったことを割り引いても、この眺めの良い屋上カフェはなかなかの穴場である。パリにいる歓びを噛みしめる。
やっと元気が蘇ったので一階の受付に取って返し、今月末まで開催中の展覧会「ゲルニカ Guernica」のチケットを購入した。
言うまでもなかろうが、マドリードにある門外不出の大作《ゲルニカ》は本展に出品されない。いわば「ゲルニカ抜きのゲルニカ」展なのだが、はたしてそれで展覧会が成立するのか否か。むしろそこに興味をそそられたのだ。
結論から言うと、展示は成功していた。《ゲルニカ》現物が来ないことは端から織り込み済で、そのかわり原寸大パネルはもちろんのこと、ロバート・ロンゴ、ダミアン・ドルーベ(Damien Deroubaix)、タチアーナ・ドラス(Tatjana Dollas) の三人による原寸大《ゲルニカ》模倣作が会場のあちこちに展示され、制作過程を記録したドラ・マール撮影の写真シリーズも壁に投影される。
マドリードのソフィア王妃芸術センターからは《ゲルニカ》制作過程を示す貴重な資料が貸し出され、スペイン内乱を報ずる当時の新聞・雑誌、プロパガンダ・ポスター類とともに、1937年の空気を生々しく伝える。
《ゲルニカ》理解に欠かせない画中のモティーフ探索にも抜かりなく、ここピカソ美術館の豊富な所蔵品から、「泣く女」「斃れる兵士」「牡牛=ミノタウロス」「いななく馬」など、構成要素がどのようにしてピカソに胚胎し、《ゲルニカ》に組み込まれていったかが、自ずと理解される。
硝子ケースやパネルによる資料展示も興味深く、万博スペイン館での公開初日に出席しようとしないピカソを咎めるエリュアールの手紙や、その後の数十年間《ゲルニカ》が各地を転々とする「流浪の旅」を跡づけるコーナーなど、いろいろ興趣が尽きなかった。
このように微に入り細を穿つ分析や探究に堪えうる世紀の傑作、それこそが《ゲルニカ》なのだ。
そのあとさらに一時間ほどかけて、美術館の常設展示もじっくり拝見。ピカソ旧蔵のルノワールの裸婦像も、1999年の展覧会で借用したので、これまた再会できて嬉しい。
開館から三十余年を経て、この美術館にも風格が備わってきた。当初はピカソと縁もゆかりもないマレ地区の城館がいかにも不似合いに思えたものだが、どうしてどうして、今やピカソその人の存在すら感じさせる特別な場所に成長した。展示方法も行き届いている。まことに継続は力なり。
そろそろ日が傾いてきたので、美術館を辞去し、再びサン=ポール駅から地下鉄に乗り、レピュブリック駅経由でリシュリュー・ドルーオ駅へ。四時過ぎに新しいホテルに戻り、荷物を回収しチェックインを済ませた。さすがに疲労困憊して部屋のベッドに倒れ込む。