五十年前の1968年、田舎の高校一年だった小生はまだ何もわからぬまま、騒乱に明け暮れる内外の情勢を傍観していた。
全国の大学で燃えさかる学園紛争、泥沼のヴェトナム戦争をめぐる反戦運動、収まる気配のない中国の文化大革命、パリの「五月革命」の市街戦、北アイルランドでの紛争、そしてチェコの民主化運動「プラハの春」とソ連軍のプラハ侵攻。
とりわけ8月20日、ソ連が主導するワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキアへの軍事介入は、他国の政治変革を踏みにじる社会主義大国の横暴を強く印象づけ、ソ連という国の情け容赦のない非道な本性を見せつけられる思いがした。爾来、いかなる形であれコミュニズムには共感も同調もできないまま今日に至る。わがトラウマとなったのである。
プラハ侵攻からわずか三か月後の1968年11月18日、チェコスロヴァキア郵政当局は「ユネスコ切手」の名のもとに、記念切手「20世紀の文化人」全七種を発行した。
これらの現物を初めて目にしたのは翌69年の春頃だったろうか。そのとき覚えた嬉しい驚きを半世紀後の今もありありと記憶している。
ラインナップを紹介しておこう(→これ)。選ばれた文化人の顔ぶれに目を瞠る。
■ アーネスト・ヘミングウェイ (20ハレル)
■ カレル・チャペック (30ハレル)
■ ジョージ・バーナード・ショー (40ハレル)
■ マクシム・ゴーリキー (60ハレル)
■ パブロ・ピカソ (1コルナ)
■ 横山大観 (1コルナ20ハレル)
■ チャーリー・チャップリン (1コルナ40ハレル)
「ユネスコ」と銘打つのだから、切手に登場させる20世紀の文化人は国際的な知名度は無論のこと、偏りなく世界各国から選ばねばならぬ――チェコの郵政当局は人選にいろいろ苦労したことだろう。
作家からは米国のヘミングウェイとソ連のゴーリキー。劇作家では自国のチャペック弟と英国のバーナード・ショー。ピカソとチャップリンは当時まだ存命中だったが、この二人に国籍はもはや問題にならず、世界中で知らぬ者なき別格的な大物なので、登場に異論は出なかったろう。
残る一人が横山大観というのは(当時も今も)不思議な気がする。20世紀の画家としてピカソと大観が並ぶのは不釣り合いで奇妙な感が否めない。おそらく当局は「七人のなかに東洋人が一人もいないのはユネスコの趣旨に反する」と考え、あれこれ思案の末、横山大観に行きついたのだろう。
とはいえ、大観の国際的な知名度は(当時も今も)他の六人とは比較になるまい。同じ東洋人なら、むしろインドのタゴールか、中国の魯迅を選んだほうが順当だったのではないか。そんな気がする。
もうひとつ不思議に思うのは、七種の切手にドイツ人が一人も登場せず、ポーランド、ハンガリーなど他の東欧諸国の文化人も選ばれていないところだ。果たしてこれは意図的な選択と排除の結果なのか。
そういえば「文化人切手」と謳いながら、科学者や音楽家が一人も含まれていない理由もわからない。もしも門戸をそこまで広げるなら、ポーランドからキュリー夫人、ハンガリーからバルトークが選ばれたに違いないのだが。
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これら七人の文化人の秀逸なカリカチュアを描いたのは、挿絵画家・戯画家として戦前から活躍したアドルフ・ホフマイステル Adolf Hoffmeister(1902~1973)である。優れた文筆家・詩人としても知られる。
1920年代にチェコ・アヴァンギャルドの一翼を担い、第二次大戦中はフランス、モロッコ、アメリカで亡命生活を余儀なくされたが、戦後は故国に帰還し、旺盛な創作活動を再開した。
芸術表現の束縛を嫌い、リベラルな精神を標榜するホフマイステルにとって、社会主義政権との関係はしばしば緊張と軋轢を孕んだものだったから、1967年に自由化の波が起こるや、彼はドゥプチェク政権が掲げる「人間の顔をした社会主義」にすぐさま賛意を表明した。
1968年に「ユネスコ切手」を発行するにあたり、原画作者としてホフマイステルが三顧の礼をもって迎えられたのは、カリカチュリストとしての国際的名声はもちろんだが、その政治的な立場が大いにものを言ったに違いない。
七枚の切手はどれも見事な出来映えであるが、とりわけチャペック、ショー、ゴーリキーの三点は、簡略で流暢な線描が対象の個性を余すところなく写し取っており、人物切手のデザインとして際立つばかりか、カリカチュアの歴史に残る傑作といえよう。
ちなみに、彼はこれらの切手のいくつかで過去の自作を再利用しており、チャペックでは1929年のカリカチュア《カレル・チャペックの趣味 Zájmy Karla Čapka》(→これ)、ピカソでは1957年にカンヌで描いた似顔絵を、それぞれ下敷きにして描いている。
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今でも忘れられないのは、これらの「ユネスコ切手」を近所に住む叔父が絶賛していたことだ。叔父は本職は昆虫画家だったが、古今の芸術万般に通じ、当時は小生と同じく切手蒐集にも打ち込んでいた。叔父は驚くべきことを口にした。
「このチェコの文化人切手はいいなあ。どれも本人にそっくりだ。よくみると、ほら、ゴーリキーが白樺の傍らで泣いている。きっとソ連軍のチェコ侵攻を悲しんでいるのだろう」
なるほど、本当にそうだ。小さな印面のなか、ゴーリキーの右眼の下には大粒の涙がひとしずく、たしかに描かれているではないか!(→これ)
ここで妄想を逞しくしてみる。
切手発行は国家事業であり、年間発行計画に基づきシステマティックに進められた。この「ユネスコ切手」もおそらく春先にはホフマイステルの原画制作が始まり、初夏には切手原版の彫版が進められたことだろう。11月発行から逆算して、遅くとも9月には印刷にかからねばなるまい。
そして運命の8月20日がやってくる。ドゥプチェク政権はなお改革の続行を訴えたが、ソ連の軍事力の前では無力だった。翌69年4月、ドゥプチェクは退陣を余儀なくされ、やがて改革派幹部たちはことごとく除名され、「人間の顔をした社会主義」の試みは水泡と化す。
未曾有の大混乱のなか、「ユネスコ切手」の準備は粛々と進められた。その過程で、ソ連の侵略に憤り、ドゥプチェク政権に共感を寄せる何者か(おそらくはホフマイステルその人)の発案により、刷版のゴーリキーの右眼に涙の一滴が描き加えられ、社会主義リアリズム文学の主導者がソ連の侵略に人知れず嘆き悲しむ、というメッセージが密かに刷り込まれた――そのように想像したくなる。そうだ、きっとそうに違いない・・・
遠く極東の島国でも気づいて、そう憶測する人間がいたのだから、チェコ本国でも、切手に描かれたゴーリキーの涙に目を留めた者が少なからずいたことだろう。
最近になって知ったのだが、当時すでに親ソの御用評論家の一人が目ざとくこれに気づき、1972年の雑誌論文で「ゴーリキーの肖像切手をデザインしたホフマイステルのような輩はソ連に敵対している」「反革命的な1968年、ホフマイステル教授はロシアの風景のなかでゴーリキーに涙を流させた」などと語気鋭く糾弾していたのである。
この事件が直接の原因だったわけではないが、改革運動が瓦解してからのホフマイステルは不遇だった。作品の発表と公刊を当局から禁じられ、1969年に一旦フランスに出国するが、70年には再び故国に戻り、厳しい監視下で思うように制作できぬまま三年後に歿している。享年七十。
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この記事を書くために少し調べてみたら、「ユネスコ切手」に描き込まれた「ゴーリキーの涙」の真相が明らかになった。
切手の彫版家シュミットが切手の原版を印刷局に手渡したのは1968年5月31日(プラハ侵攻の三か月前)であり、そのときすでにゴーリキーの右眼の下には涙が彫られていた。つまり、ソ連の軍事介入を待たずして、切手のゴーリキーは「泣いて」いたことになる。
さらに判明した事実によれば、ホフマイステルが切手に描いたゴーリキーの姿にはさらに祖型があり、それは1934年の第一回ソ連作家同盟の大会で演説するゴーリキーを描いたカリカチュアだという。驚いたことに、その戯画のなかでゴーリキーはすでに涙を流しているのである!