クラウディオ・モンテヴェルディの名を意識したのはいつのことだったか。五十年前の1967年、生誕四百年を期してイタリアから記念切手(
→これ)が出たときも、さしたる感慨を抱かなかったのだから、それよりも後だと思う。1966年に日生劇場であった《ポッペアの戴冠》日本初演のことも全く気づかなかった。
1967年末、ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団に客演し、《聖母マリアの夕べの祈り》日本初演を指揮するのをTVで観たが、そのときは豚に真珠さながら、さっぱり良さがわからなかった。
1969年に東京室内歌劇場が創設され、ほどなく《ポッペア》や《オルフェオ》が小さな舞台にかかったときも、ラヂオ番組でそれらの公演を吉田秀和が高踏的ながら熱っぽい口調で称賛したのを記憶しているが、わざわざ足を運ぼうとまでは考えなかった。片田舎に暮らす高校生にはバロック・オペラはおろか、ヴェルディやプッチーニの歌劇ですら縁遠かったのだから致し方あるまい。
それから十数年後、たまたま知人宅で新譜として聴かされたジョン・エリオット・ガーディナー指揮による一枚のLPが一気に小生の蒙を啓いた。四百年前の音楽がかくも瑞々しく新鮮に、紛れもない人間の息吹をもって響きわたる奇蹟に、ただもう言葉を失う思いがした。前項で紹介した "Monteverdi: Balli e Balletti" というアルバムがそれだ。1983年か84年のことだったと思う。
しかしながら、クラシカル音楽全般から遠ざかっていた1980年代の小生は、せっかくの邂逅をすぐさま生かそうとはせず、糧を得るために汲々とする日常の忙しさにかまけていて、モンテヴェルディの音楽はたちまち忘却の淵に沈んでしまう。
次の契機は1993年にめぐってきた。西洋音楽に憧れながら極東の島国から一歩も出ようとしない小生の消極性に業を煮やした梅田英喜さんが「
沼辺さん、私がすべてを手配しますから一緒にヨーロッパへ行きましょう」と、半ば強引に小生をロンドンとパリへと誘ったのだ。「
あちらでは沼辺さんが聴きたいコンサートやオペラが毎日のようにあり、しかも驚くほど安価なのです」と。
梅田さんに懇々と説き伏せられ、ようやく渡欧を決断した小生は、これまた彼に促されて赤坂のツインタワーにあった英国政府観光庁へと赴いた。現今とは異なり、ロンドンでの音楽会情報を得るのはきわめて難しかったから、ここのオフィスでパンフレット類を閲覧させてもらい、どんな催しがあるのかを予め調べておく――こんな知恵も彼から伝授されたのだ。
あれこれ下調べするうちに、ちょうどわれわれのロンドン滞在中の12月8日、モンテヴェルディのオペラ《ポッペアの戴冠》がただ一度だけ上演されるのを知った。しかも指揮者はほかならぬジョン・エリオット・ガーディナー!
そうと知ったら、これはもう、絶対に聴き逃せない。英国旅行の最大の目的はこれだとまで思い定めた。
せっかくの機会だからと、諸書を繙いて《ポッペアの戴冠》の粗筋を調べて胆をつぶした。極悪非道の皇帝ネロが愛人ポッペアと結婚するため、妻を離縁し遠国へ流刑にし、永年遣えた臣下の哲学者に死罪を申し渡す。善は滅び悪が栄えて終わるという、とんでもない言語道断の物語なのだ。いくらオペラ史上の重要作品とはいえ、こんな荒唐無稽なストーリーはないだろう。本当に愉しめるのだろうか?
ロンドンに到着し、梅田さんの定宿というトッテナム・コート・ロードのホテルに荷を解くや、彼の先導でテムズ河畔のサウスバンクへ赴いた。初めての小生は右も左も皆目わからなかったが、勝手知ったる梅田さんは迷わずボックスオフィス(発券所)に直行した。だが結果は予想に反して芳しくなかった。どころか最悪である。「
沼辺さん、《ポッペア》はすでに完売だそうです」
無理もない、当世随一のモンテヴェルディ指揮者ガーディナーが振る一度きりのオペラ公演なのだから。梅田さん曰く「
サウスバンクに三つあるホールのうち、大ホールのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでなく、中規模のクィーン・エリザベス・ホールでの開催ですから、もともと席数に限りがあるのです」。
だが梅田さんは一向に動じた様子もなく、冷静にこう続けた。
「
沼辺さん、でも大丈夫。落胆するには及びません。ロンドンにはリターン・チケットといって、当日に行けない人が切符をキャンセルすると、それが再発売される重宝なシステムがある。だから当日は早めに並べば必ず入れますよ」。
++++++
翌12月8日は《ポッペア》当日だというのに、頼みの綱の梅田英喜さんは彼の本業であるアンティーク蓄音器を探しにオークション会場へ出かけてしまった。「
ホテルで貰った地図と、キオスクで買ったTimeOut(ロンドン版『ぴあ』というべき情報誌)
があればどこへでも出かけられます。沼辺さん、今日は一人で好きなところへ行ってごらんなさい」。
未知の大都会ロンドンでの単独行動は心細い限りだが、それでも古本屋やレコード店を訪ね歩いたり、玩具博物館を捜し当てたり、ナショナル・ギャラリーを見物したり、それなりに有意義な一日を過ごした。
《ポッペア》開演は18時半なので、17時前にサウスバンクへ赴き、クィーン・エリザベス・ホールのリターン・チケット待ちの列に並んだ。すでに小生の前には七、八人が列をなし、順番を待っている。当日券販売と違い、並んだからといって入れる保証はないので、誰もが不安げな面持ちで佇む。
半時間ほど待っただろうか、ようやく一人の紳士が現れ、窓口でキャンセル手続きを行う。ほどなく係員から一人分のリターン・チケットがある旨、知らされた。ところが驚いたことに、列の先頭集団の誰もが残念そうに顔を横に振る。どうやら二枚ないし三枚を所望する人ばかりだったらしく、いきなり小生に順番が廻ってきて、そのチケットを購入できたのである。なんたる幸運! 「
早めに並べば必ず入れますよ」という梅田さんのご託宣は嘘でなかった。
《ポッペアの戴冠》初体験の小生に、この宵の演奏を他と比較して云々することはできかねる。ただもう夢中で聴き惚れたというのが正直なところだ。
忘れずに書き添えておくと、オペラ上演は演奏会形式で行われ、舞台には古楽器アンサンブル(イングリッシュ・バロック・ソロイスツ)がずらり並び、歌手たちは折々に登場しては手前の階段状の一廓で歌い演じるという、コンサートとオペラの折衷方式である。
厳かな序奏に導かれて、三人の神々が現れ、古式床しくこの歌芝居への口上をこもごも述べる。ドラマはまだ始まらないというのに、古楽器の高雅な音色の絡みあいの美しさに魅了され、歌手たちの声の演技の巧みさにたちまち惹き込まれた。ガーディナーの指揮が柔軟かつ的確なのは一目瞭然。これはただならない一夜になりそうだ。
予感は見事に的中した。それからの三時間の夢心地を詳述することは不可能だが、どの幕のどの場面にもさまざまな人間的な感情が渦巻き横溢して、片時も注意が逸らされることがない。これが本当に四百年も前の歌劇黎明期の音楽なのか。私たちがオペラに望むすべてがここに萌芽しているではないか、という驚きに目を瞠り、心が躍った。
ポッペアの一途な恋心、皇妃オッターヴィアの無念の思い、従容として死に赴く哲人セネカと、門人たちの哀しみの合唱、そして大団円を彩るポッペアとネローネのこよなく甘美な愛の二重唱。すべての登場人物が音楽で生き生きと活写され、感情の機微が細やかに彫琢される。ここからモーツァルトの《フィガロ》まではあと一歩なのではないか? モンテヴェルディの時代を遥かに超えた天才にしたたか打ちのめされる思いがした。
幸いなことに、この宵の一部始終はドイツ・グラモフォンによって実況録音され、三年後にアルヒーフ(Archiv)レーベルから三枚組の全曲盤CD(
→これ)として発売されたから、小生が体験した演奏のなんたるかを、いつでも、何度でも、どなたとも共有できる。
あのとき夢見心地だった小生は「ガーディナーの《ポッペア》を生で聴いた」というだけでもう胸が一杯だったのだが、改めてそのディスクを手に取って驚かされるのは、当夜のキャストの豪華さである。
ポッペア/シルヴィア・マクネア
オッターヴィア/アンネ・ソフィー・フォン・オッター
ネローネ/デイナ・ハンチャード
オットーネ/マイケル・チャンス
セネカ/フランチェスコ・エッレーロ・ダルテーニャ
ドルシッラ/キャサリン・ボット ほかとりわけポッペア役のマクネアの甘美な声、フォン・オッターの厳しくも凛々しい歌は絶品である。
何も知らずに居合わせた小生には「豚に真珠」「猫に小判」だったに違いないが、彼女らの歌唱の素晴らしさがあればこそ、初心者の小生にもモンテヴェルディの天才がひしひしと感じられたのであろう。なんとも贅沢なチチェローネ(指南役)というほかない。
終演後、夜更けのテムズ河畔サウスバンクからトッテナム・コート・ロードの宿まで、熱に浮かされたように歩いて帰ったのを、おぼろげながら憶えている。