少し前に音楽鑑賞歴五十周年を期して、わが鍾愛の五十曲をリストアップしたのだが、そのなかに堂々ランクインしたのがアレクサンドル・グラズノーフの交響曲 第八番である。えっ、そんな曲、知らねえよ、ですって?
昔々の大昔、たしか1969年の初め頃だと思うのだが、早起きしてトランジスタ・ラジオを点け、朝五時からの音楽番組にダイヤルを合わせた。ラジオ関東は電波の入りにくい遠方の局なので、ラジオに齧り付くように雑音混じりのか細い音に耳を欹てた。
そのとき流れてきたのが「グラズーノフの交響曲 第八番」だった。演奏は「エフゲニー・スヴェトラノフ指揮モスクワ・ラジオ交響楽団」。解説者が「副題は《アフラマズダとアーリマン》といい、光と闇の戦いを主題にした交響曲です」と不思議な説明を加えたように記憶する。
劣悪な受信状況にもかかわらず、一聴して惚れ込んだ。こんなに繊細優美で、しかも豪放雄大な音楽がほかにあるだろうか。早朝の寝惚け眼がぱっちり見開いたのを今もよく憶えている。後日すぐ上野の東京文化会館の音楽資料室で、この曲の同じ演奏をLPレコードでじっくり試聴した(当時は上記のスヴェトラーノフ盤しか出ていなかったのだ)。爾来この交響曲は半世紀間ずっと鍾愛の音楽であり続けている。
→そのスヴェトラーノフ指揮の録音(YouTube)
グラズノーフの《第八》はよほどのロシア音楽通でないと知らない曲だし、いまだに録音は数えるほどしかない。ましてや実演の機会となれば生涯に一度あるかなきか(先日こう不用意に口にしたら、小生を遥かに凌駕するグラズノーフ愛好家の宮山幸久さんから「1992年に朝比奈隆が取り上げたし、数年前には東京のアマチュア・オーケストラがやりましたよ」と軽くいなされた)。とにかく滅多に聴けない曲に違いなく、少なくとも小生には実演は初めてだ。
そんなわけで大いなる期待を胸にサントリーホールへ赴く。座席も大奮発してS席、平土間の前方ど真ん中だ。
日本フィルハーモニー交響楽団 第705回定期演奏会
2018年11月10日 午後二時~ サントリーホール
グラズノーフ: 交響曲 第八番
ショスタコーヴィチ: 交響曲 第十二番
指揮/アレクサンドル・ラザレフ
ただし不安材料もある。このラザレフなる指揮者がグラズノーフのバレエ音楽《四季》を振った凡庸な実演にいたく落胆したことがあるからだ。2001年のことである(ただしオーケストラは読売日本交響楽団だった)。もう金輪際ラザレフなんて聴くもんかと心に誓ったものだ。
それでも足を運んだのは、わが残り少ない人生で、この曲を生で聴く機会は他にあるまいと観念したためだ。演奏が多少ヘボでも致し方あるまい。
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「期待は失望の母である」とはよくぞ言ったもので、やはりラザレフの指揮からは落胆が齎されるばかり。これを渾身の力演とかロシア的な凄演とか持て囃す人もいるのだろうか、小生には細部のニュアンスに乏しい大味な演奏にしか聞こえなかった。優美と繊細を欠いたグラズノーフほど空しいものはない。終楽章のコーダを急き立てるような倍速テンポは、到底容認できるものでない。
あまりにもがっかりしたので休憩時にワインを一気にあおり、軽い酩酊状態で後半のショスタコーヴィチを聴く。この交響曲はまあ、元々こういう音楽だと容認できるのは、過大な期待感がこちらにないためか。
まるで十月革命の動画映像を観るような判りやすさで演奏はさくさく進む。いいぞ、その調子でどんどん行け!
実際、この交響曲はセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の疑似ドキュメンタリー映画《十月 Октябрь》(1928)でも用いられた。もちろん後で付加されたサウンドトラックに、なのだが。
終了後は酔い醒まし(音楽に酩酊したのではない)に六本木から新橋まで半時間かけて歩き、駅前のニュー新橋ビルの裏手にある港区の生涯学習センターの一室へ。初めて来た。こんな場所に文化施設があるなんて。
エイゼンシュテイン・シネクラブの例会。久しぶりに顔を出して、井上徹さんのレクチャー「エイゼンシュテインと日本文化」を拝聴する。廃棄されたはずの《イワン雷帝》第三部の残闕断片(ほんの数分だが台詞入りでシークエンスが丸ごと残り、素晴らしい見もの)が上演され、晩年のエイゼンシュテイン映画における歌舞伎の影響がまざまざと示唆される。
素晴らしい講演内容なのに、参集者は小生を含め僅か三名。勿体ない話である。ラザレフ某の指揮なんかより、よほど裨益するところ大なのだが。