先週は苦労が絶えなかった。特に週末は塗炭の苦しみ。
都立中央図書館と国会図書館でいろいろ厄介な調べものを済ませ、20日のレクチャーのための資料を整えた矢先、拙宅のPCが不意に絶不調に陥ってしまい、メール送受信もパワーポイント作業もできなくなった。原因はわからない。最も深刻なのは一カ月かけてPC内に蓄積した画像や当日の配布用に準備した文章が取り出せなくなったこと。あわや万事休すかと思われたが、いろいろ秘策を講じてどうにかデータを救出して辛くも事なきを得た。
というわけでここ数日は阿修羅のような日々。最悪の事態をなんとか回避できたのは不幸中の幸いだったが、とにかく身も心も疲労困憊した。
ここで少し気分を変えて、ふとした偶然からたまたま目にした雑誌掲載エッセイについて記そう。いずれも五月になって存在を知ったものばかりだ。
澤田精一
戦前の光吉夏弥を尋ねて
『図書』2017年1月号 所収光吉夏弥(1904~1989)には誰しも恩がある。彼は戦前から欧米絵本の蒐集に打ち込み、戦後ほどなく「岩波の子どもの本」シリーズ創刊に際し、多くの絵本を提供するとともに、『みんなの世界』『はなのすきなうし』『ちびくろ・さんぼ』『山のクリスマス』を訳出、『こねこのぴっち』(石井桃子訳)のユニークな小型版を自らレイアウトした。その経緯については、四年ほど前かなり詳しく検証したことがある。
→「岩波の子どもの本」六十周年──光吉夏弥の貢献→「岩波の子どもの本」六十周年──縦組か横組か→「岩波の子どもの本」六十周年──作者が愛した「ぴっち」 本稿の著者はかつて福音館書店で雑誌『子どもの館』編集に携わり、光吉の連載「子どもの本の世界から」を担当した。晩年の謦咳に接した体験を端緒として、この不世出の「目利き」の戦前の足跡を探ったのが当エッセーだ。周知のように若き日の光吉はまず舞踊評論家、ついで新興写真の賛同者として世に出た人物であり、表題に「戦前の」と掲げた文章であるからには、ここでも当然そのあたりが探索される。生前の光吉は戦前の話題になると「いいじゃありませんか」と話を逸らしたという。したがって光吉の戦前~戦中の足跡には不明な点が多く、調査は容易でないようだが、このエッセーを契機に、光吉の業績の全体像を明かす評伝が書かれることを切に願う次第。おそらく澤田氏はその最適任者となるだろう。
松田喜久子
日英友好の灯火を守った「東京マドリガル会」の88年
~黒澤家とその周辺、連載こぼれ話・前編~
『古楽情報誌 アントレ』2017年5月号 所収
この雑誌記事のことは全く知らず、先日このブログへの「やま」様のコメントでご教示いただいたもの。『アントレ』誌の存在は承知していたものの、古楽に疎い小生は手に取った験しがなかった。筆者の松田喜久子さんは「東京マドリガル会」と縁のあるソプラノ歌手。連載は戦前から「東京マドリガル会」や「ポリフォニック・オーケストラ」を主宰し、自らもリコーダーを嗜んだ実業家、黒澤敬一(1903~1982)の生涯を綴ったものらしく、それ自体がきわめて貴重な試みであるが、その「こぼれ話」の一端として、ドイツから戦時下の日本へ移り住み、チェンバロとクラヴィコードの演奏を披露したエタ・ハーリヒ=シュナイダー(1897~1986)との交友が綴られている。ドイツ大使館からエタの世話を頼まれた黒澤氏は、彼女とその楽器を守るために尽力し、家族ぐるみで親交を深めたという。エタが招来したチェンバロとクラヴィコードは今も黒澤家に現存するそうである。ハーリヒ=シュナイダーについてはいずれ日本語で評伝が出るだろうが、その際に黒澤家への取材は欠かすことができないだろう。次号でもエタの話題が語られるというから楽しみだ。
籾山昌夫
イリヤ・レーピン《ザポロージャのコサック》のふたつの複製画の文化学的考察と《夕べの宴》関連作品の再発見について
『神奈川県立近代美術館 年報』2015年度 所収つい最近ポストに届いた神奈川県立近代美術館の年報の最新号(にもかかわらず2015年度の報告だ)。2015年は同美術館の鎌倉館が閉館に追い込まれた年であり、クロージングに至る一部始終の記録として本号は価値がある。この年報には研究紀要という一面もあり、終わり近くにひっそり差し挟まれているのが学芸員の籾山さんの論考だ。周知のとおり籾山さんは画家イリヤ・レーピンの長きにわたる研究者であり、2012~13年に開催された「国立トレチャコフ美術館蔵 レーピン展」の企画・構成にあたった当事者なのである。小生は渋谷の文化村のザ・ミュージアムでの展示を、幸運にも彼の案内つきで観る機会を得たので、その記憶は今も鮮やかだ。
(まだ書きかけ)