(昨日の続き)
そんなわけで、チャイコフスキーのオペラ《スペードの女王 Пиковая дама》をご当地レニングラードの歌劇場で鑑賞しようという小生の目論見はあえなくも打ち砕かれた。
その代わりに観た《エヴゲニー・オネーギン》はいかにもレパートリー上演らしく、可もなく不可もない、ごく普通の舞台だったので、海外で実見した最初のオペラだったにもかかわらず、ほとんど記憶に残っていない。
むしろ、休憩時間に眼にした驚くべき光景――それなりに着飾りおめかしした観客が男女カップルで腕を組み、列をなして、ロビーでぐるり大きな輪を描いてゆっくり歩く姿に、目を丸くしたものだ。ずっとあとで知ったのだが、これは帝政ロシア時代からの古いしきたりで、オペラの観客たちはこうして顔見知り同士で互いに会釈を交わしていた由。
一世紀前のパリで生まれ、同地ではとっくに廃れた陋習が、社会主義国では後生大事にずっと遵守されてきたのである!
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閑話休題。こんな懐旧談を持ち出したのは、わが因縁の《スペードの女王》の全曲CDを手に入れたからだ。1984年、モスクワのボリショイ劇場の歌手勢と指揮者がミュンヘンに繰り出し、サヴァリッシュ時代のバイエルン州立歌劇場で公演した際の珍しいライヴ録音である。
"Tschaikowsky: Pique Dame"
チャイコフスキー:
歌劇《スペードの女王》全曲
ゲルマン(テノール)/ヴラジーミル・アトラントフ
リーザ(ソプラノ)/ユリア・ヴァラディ
伯爵夫人(メゾソプラノ)/エレーナ・オブラスツォワ
ポリーナ(メゾソプラノ)/リュドミラ・シェムチューク
トムスキー伯爵(バリトン)/アレクサンドル・ヴォロシロ
エレツキー侯爵(バリトン)/ボド・ブリンクマン
チェカリンスキー(テノール)/山路芳久
スーリン(バリトン)/カール・ヘルム ほか
アルギス・ジュライティス指揮
バイエルン州立歌劇場管弦楽団&合唱団
ペスタロッツィ=ギュムナジウム児童合唱団
1984年11月24日、ミュンヘン、ナツィオナルテアター(実況)
Orfeo C 811 112 1 (2011) →アルバム・カヴァー
このライヴ録音をぜひ聴きたく思ったのは、輸入元キングインターナショナルが綴った以下の宣伝文のゆえである(無記名ながら、執筆者はロシア音楽に精通する同社のプロデューサー宮山幸久さんに違いなかろう)。
バイエルン国立歌劇場の貴重なライヴ音源を世に出す人気シリーズ、今回はジュライチスの『スペードの女王』1984年11月公演です。
アルギス・ジュライチスはソ連時代のボリショイ・バレエで一時代を築いた名指揮者で、オブラスツォワの夫君。バレエの巨匠と称された彼がオペラを振るのは珍しいと言えます。それは1978年にシュニトケがチャイコフスキーの『スペードの女王』を改編し、ロジェストヴェンスキーがその版を用いてパリ上演を企てた際、ジュライチスとオブラスツォワ夫妻は新聞「プラウダ」でこれを「国辱」と攻撃し、中止にさせたことに起因します。その両者が6年後、国の威信をかけてボリショイの正統派『スペードの女王』をミュンヘンで示すこととなりました。その任務の重大性ゆえか、驚くほどの緊張感あふれる凄い名演となっています。
1966年に行われた第3回チャイコフスキー国際コンクール声楽部門優勝のアトラントフ十八番のゲルマンは美声、声量、演技いずれも完璧。ソ連時代の演奏家の凄さを改めて実感させられます。リーザ役のヴァラディが絶品。実はヴァラディとたいして年の変わらない祖母役のオブラスツォワの伯爵夫人も怖いまでに真に迫りまさに神業。カード・ゲームでゲルマンに勝つチェカリンスキー役を夭折の山路芳久が演じているのも注目。彼の数少ない録音でもあり超貴重。勝ち組を朗々と演じています。(キングインターナショナル)
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これはちょっと聞き捨てならない秘話である。
シュニトケ改変版《スペードの女王》のパリ上演をめぐってモスクワ楽壇で深刻な対立があったという。その顛末は、かつてロンドンのシュニトケ・アーカイヴを主宰されていたアレクサンドル・イワーシキン教授からじかに話をうかがったことがある。
ちょうど東京でゲンナジー・ロジェストヴェンスキーがアリフレード・シュニトケ最初期のオラトリオ《長崎》(1958)を日本初演した直後だったので、話題はその《長崎》をめぐって展開された。
《長崎》はシュニトケのモスクワ音楽院での卒業作品だったが、その個性的な作風をめぐって作曲家同盟から異議が唱えられ、演奏会での上演は実現しなかった。そうした状況下で、この問題作の放送初演の指揮を買って出たのが、リトアニア出身の新鋭アルギス・ジュライティスだった。後年すっかり国策べったりの保守派へと転ずるジュライティスも、当時はシュニトケの尖端的な音楽の擁護者だったというのだ。
それから二十年の歳月が流れ、シュニトケは相変わらず国内では不遇をかこっていたが、すでに西欧諸国ではソ連を代表する前衛作曲家として赫々たる名声を築きつつあった。その彼のもとに、重要な国際プロジェクトへの参画の話が転がり込んだ。
パリのオペラ座でオペラ《スペードの女王》の新プロダクションが企てられ、その演出はユーリー・リュビーモフ、指揮はゲンナジー・ロジェストヴェンスキーの手に託された。リュビーモフはチャイコフスキーのオペラが原作の意図を損ねていると考え、プーシキンの精神に沿ってオペラに大鉈を振うことを決意し、ロジェストヴェンスキーの助言を得て、その改変作業をシュニトケに委ねた――ざっとそういう経緯だったように思う。
このリュビーモフ=ロジェストヴェンスキー=シュニトケによる《スペードの女王》改作に異を唱え、チャイコフスキーの聖典を傷つける犯罪行為だと糾弾したのが、ほかならぬジュライティスその人だったというのだ。
上に引いたCD宣伝文にもあるように、当時すでにボリショイ劇場の有力指揮者となっていたジュライティスは、妻のメゾソプラノ歌手で、ボリショイ劇場の専属ながら世界的な名声を博していたエレーナ・オブラスツォワと連名で、共産党機関紙『プラウダ』に、この企てに関わるソ連の芸術家たちを名指しで攻撃し、当局の然るべき介入を求める公開書簡を掲載した。1978年3月11日のことだ。まるでショスタコーヴィチを標的とする1936年の「芸術の代わりに荒唐無稽」キャンペーンや、反形式主義を標榜した1948年の「ジダーノフ批判」を彷彿とさせる由々しき事態である。
かつて1974年にロストロポーヴィチ&ヴィシネフスカヤ夫妻が反体制作家ソルジェニーツィンを擁護した際も、ジュライティス&オブラスツォワ夫妻は彼らを糾弾する公開書簡に率先して署名しており、ブレジネフ政権の文化抑圧政策に賛同する姿勢を露わにしてきた。国家への忠誠を示すことで、ソ連邦の芸術家としての地歩をより強固なものとしたのである。
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ロンドンのシュニトケ・アーカイヴの一室でこのように経緯のあらましを語ったイワーシキン教授は、ここで少し間をおいて、さらに言葉を続けた。「だがジュライティスの側にも汲むべき事情があった。リトアニア出身の彼には後ろ盾がなく、ボリショイ劇場での地位を自ら守らねばならなかった。だから時の政権にすり寄ったのだろう」と。
ロストロポーヴィチの愛弟子としてボリショイ劇場で永くチェロ奏者を務め、ロジェストヴェンスキーとジュライティスの謦咳にも親しく接し、シュニトケとは公私ともに深い交わりをもったイワーシキン教授にとって、関係者のすべてが身近な人物であり、彼自身もまた渦中で事態の推移を見守った目撃者=証言者である。あの非道な時代にあっては、誰が正しく、誰が悪いと俄かに断じがたく、行為の善悪は部外者には軽々しく断じ得ない――教授の複雑な表情は、問わず語りにそう告げているように思えたものだ。
ところで、ジュライティス&オブラスツォワ夫妻の『プラウダ』宛て公開書簡は、彼らが企てた単独行動ではなかった。彼らの投稿記事が掲載されてからわずか四日後の1978年3月15日、すでに国外追放中のロストロポーヴィチ&ヴィシネフスカヤ夫妻に対して、ソ連当局は改めて「彼らの反ソ的行動ゆえに」二人の国籍を剥奪する決定を下したのだ。すべてはあらかじめ仕組まれた国家的な茶番劇であり、ジュライティス夫妻は当局がゲームに用いたチェスの駒に過ぎなかったのだろう。
とまれ、ジュライティス夫妻の反《スペードの女王》上演キャンペーンはまんまと奏功し、オペラの改作を企てた三人の芸術家のパリ行きは取りやめとなり、オペラ座での上演計画そのものがあえなく水泡に帰した。そのさなかでロジェストヴェンスキーはやむなく活動の拠点をロンドンに移し、シュニトケは国外渡航を厳禁された。リュビーモフは拠点とするタガンカ劇場での演出活動を妨げられた挙句、1984年に市民権を剥奪されて国外へと去った。
そしてその1984年とは奇しくも、ジュライティス&オブラスツォワ夫妻が満を持して西側で披露した《スペードの女王》公演の年でもあった。
宮山さんがいみじくも記すように、これこそ「国の威信をかけてボリショイの正統派『スペードの女王』をミュンヘンで示す」記念碑的な上演であり、「その任務の重大性ゆえか、驚くほどの緊張感あふれる凄い名演となってい」ることに毫も疑いはない。聴いていると、ちょっと怖くなるほどに。