われわれがこのとき逗留した宿所は「ホテル・ヨーロッパ Гостиница «Европейская»」といい、かなり老朽化していたとはいえ、伝統と格式のある老舗ホテルである。しかもその場所が凄い。
なにしろ街の中心に近い「芸術広場」に面して建っている。道路を挟んだ向かいの建物はかのレニングラード・フィルの本拠地「フィルハーモニー大ホール」、広場の向こうに「国立ロシア美術館」、向かって左方には「国立ミハイロフスキー劇場(通称/マールイ歌劇場)」が佇む。芸術好きには願ってもない立地条件なのだ。手の舞い足の踏むところを知らぬ夢心地である。
もちろん足を運びましたとも。ロシア美術館は無論のこと、フィルハーモニーの定期演奏会に一回、マールイ歌劇場の公演にも一回。
どこの切符も嘘のような安価だったのは、さすが社会主義国ならではだと感じ入ったが、対外国の両替レートが恐ろしく不均衡だったせいもあるだろう。
仕事の合間を見計らって、昼下がりに劇場へ赴き、カッサ(切符売場)前にできた長蛇の列に連なる(行列はこの国の伝統である)。
掲示されたポスターによれば、今夕の演目は "Пиковая дама"――すなわちチャイコフスキーの《スペードの女王》とある。有名なアリアを除けばほとんど聴いたことのない作品だったが、ええい、ままよ、原作のプーシキンの小説は知っているから、なんとか筋について行けるだろうと腹を括り、窓口で身振り手振りで「平土間の最上席を一枚!」と発注した。貧書生の身に余る椀飯振舞だが、それでも邦価で千円位だったのではないか。
開演時刻は午後七時半だったか八時だったか。劇場の外はまだ昼下がりの明るさなので、ちっとも観劇の気分にならないが、それでも心を鎮めて座席に着く。小ぢんまりと居心地の良い、いかにも歌劇場らしく華やいだ空間だ。
定刻を少し回って客席の灯りが落とされ、ピットの指揮者がおもむろにタクトを振り下ろす。やがて静々と幕が上がる。
そのとき小生は大変な思い違いをしていたのに気づいた。今宵この劇場で始まろうとしているオペラは《スペードの女王》ではなく、《エヴゲニー・オネーギン》だったのである!
そうだったのか。やっとわかった! さっき並んだ長蛇の列は当日券ではなく、急な演目変更に伴う払い戻しの行列だったのだ。そう気づいたときはもう遅い。いつしか舞台ではタチヤーナが長大な「手紙のアリア」を歌っている。