ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》、ラヴェルの二つのオペラと較べ、フォーレの歌劇《ペネロープ Pénélope》は、ひどく影が薄い存在といわねばならない。このオペラに親しんだ人はほとんどいないだろう。
1913年にモンテカルロとパリで行われた最初の上演はそこそこ評判になったらしいが、その後《ペネロープ》はどこの歌劇場のレパートリーとしても定着せず、舞台上演に触れる機会はごく稀であろう。
世にも名高いオデュッセウスの帰還を題材にしながら、人口に膾炙しなかったのは、台本に欠陥があるためとも、フォーレの音楽の非=劇的性格が災いしたともいわれる。とにかくヒットしなかったのだ。
この不遇なオペラの存在を知ったのは中学生の頃だ。1966年に出たフランスの文化人切手に、作家プルーストや細菌学者メチニコフらに伍してフォーレが登場し、その肖像の背後にギリシア神話の男女と楽譜が配され、小さな文字で "PÉNÉLOPE" と注記されていた(→これ)。へえ、そんな作品がフォーレにあったっけかと訝しんだのが最初の出逢いである。
長じてLPレコードでフランス音楽をいろいろ渉猟していた頃、あれは1980年代の初めだと記憶するが、このオペラの史上初の全曲盤(LP三枚組)と出くわした(仏Discoréale)。指揮はデジレ=エミール・アンゲルブレシュト、主役にレジーヌ・クレスパンが扮したライヴ録音という(1956年、シャンゼリゼ劇場)。恭しく拝聴したものの、対訳の援けを借りずに未知のオペラを愉しむだけの根気も語学力もない小生は、部分的にずいぶん綺麗な音楽だと思ったものの、何度か通しで聴いただけで投げ出してしまった。
その少しあと、タイトルロールにジェシー・ノーマンを配したシャルル・デュトワ指揮による初のスタジオ録音(仏Erato, 1982)が出たにもかかわらず、小生はなんとなく食指が伸びないまま、やり過ごしてしまった。いつの日か、このオペラを舞台で鑑賞する機会が巡ってくるのを密かに待ち望みながら。
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千載一遇の機会は不意に訪れた。20世紀も押しつまった初夏のロンドンで、一か月間の休暇を過ごしたおり、情報誌を隅々までチェックしていて、オペラ《ペネロープ》全曲の上演があることに気づいた。1999年6月のことだ。
ただし上演団体はコヴェントガーデンのロイヤル・オペラ(ROH)でも、セント・マーティンズ小路のイングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)でもない。バービカンに立地する音楽大学「ギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music & Drama)」の卒業公演なのだという。場所は学校構内に設置された劇場。座席数二百余の小ぢんまりした、だが立派な上演設備を備えた小劇場だ。
キャンパスは通い馴れたバービカンの複合芸術施設に隣接する場所なので、好奇心に駆られて出かけてみた。卒業公演で《ペネロープ》をやるなんて、見上げた心意気ではないか。ロンドンでも数十年ぶりの上演に違いないのだから。
ふた昔前に観た舞台をつぶさには思い出せないが、歌唱も演技も堂に入って、音大生の卒業公演とは信じられぬ完成度に目を瞠った。ピットには学生オーケストラが入り、装置も舞台も伴った本格的なオペラ公演。初めて生で聴くフォーレの精妙な管弦楽法の綾にうっとり陶然とした。
小生の記憶が確かならば、物語の舞台を古典古代から第二次大戦時のギリシアに移し替えた「読み替え演出」であり、ペネロペに言い寄る悪辣な男どもは皆ナチスの軍服とまとっていたのではなかったか。
演出家はダニエル・スレイター(Daniel Slater)という人。このままROHやENOの舞台にかけても通用する見事な上演だった。ロンドンの音大オペラ科の水準の高さを目の当たりにし、打ちのめされる思いだった。
惜しむらくはフォーレのオペラに対する当方の理解力の乏しさ。フランス語の歌詞はほとんど理解できず、大まかな筋立てを追うのがやっと。豚に真珠、猫に小判なのだ。旅先だったので、なんの準備も予習もなく、いきなり舞台に接したのだから、まあ当たり前だったのだが。
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情けないことに、二十年ほど経った今も、小生の《ペネロープ》理解はあれから一向に深まらない。無知蒙昧のままだ。
そのことを痛感したのは、最近このオペラの稀少な全曲盤を手に入れたからだ。しかもこれが凄い演奏なのである。
"Fauré: Pénélope -- Paul Paray Vol. 6"
フォーレ: 歌劇《ペネロープ》
ペネロペ/リリアーヌ・ジットン
エウリュクレイア/ジョスリーヌ・タイヨン
クレオン/ミシュリーヌ・コマン
メラント/ジャニーヌ・コラール
アルカンドレ/ユゲット・ブラシェ
ピュロ/シモーヌ・コディナ
リュディア/ダニエル・ペリエ
ウリュッセス(オデュッセウス)/ギー・ショーヴェ
エウマイオス/エルネスト・ブラン
アンティノオス/ルイ・ドヴォス
エウリュマコス/ロベール・マサール
レオデス/ジェラール・フリードマン
クテシッポス/ロベール・デューム
羊飼いの少年/ミシェル・マランプイ
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ポール・パレー指揮
フランス放送国立管弦楽団、フランス放送合唱団アンサンブル
1974年3月9日、パリ、シャンゼリゼ劇場(実況)
St-Laurent Studio YSL T-416 (2017) →アルバム・カヴァー
両大戦間に多くの歌劇を指揮したパレーだが、音源として残されたオペラ全曲は悲しいほど少ない。その意味からも、当《ペネロープ》は値千金の実況録音というべきだろう。八十七歳にして繊細を極め、覇気に満ちた矍鑠たる指揮ぶりには、ただただ驚嘆する。若き日に作曲家の謦咳に触れたパレーによる正統的な解釈がステレオ録音で残された僥倖を噛み締めた。
この演奏を聴き込むにあたり、デュトワ指揮による全曲の日本盤LP(エラート)も新たに買い直した。なにしろ台本の日本語訳はこれでしか読めないのだ。いよいよ《ペネロープ》をじっくり玩味鑑賞するための準備万端が整った。あとは歌詞を辿りながら繰り返し聴くだけだ。
このLPに付随するジャン=ミシェル・ネクトゥー執筆の解説は懇切丁寧、裨益するところが大きい。その一節にはなんと「ポール・パレーが1974年、ついにパリでこれを指揮した」と、この全曲演奏についても言及されているではないか。これこそ歴史に残る《ペネロープ》なのだ。心して聴いて、今度こそ、このオペラを我が物にしたいものだ。