昨日(10月9日)は珍しくバレエ鑑賞。渋谷のヒカリエ(旧東急文化会館という注釈がわれわれには必要だ)内にある「東急シアターオーブ」で公演中の《マシュー・ボーンのシンデレラ》に出かけた。
知人が急な所用で行けなくなり、小生と家人にお鉢が回ってきた。「シアターオーブ」には初めて赴く。座席数が二千近い大きな空間である。もっぱらミュージカル公演用に造られた劇場だという。
同じ訪英時イングリッシュ・ナショナル・オペラで観た新作歌劇《犬の心臓》や、ヴィクトリア&アルバート美術館での「バレエ・リュス百周年」展、テイト・モダンでの「ゴーギャン展」の印象は今でも鮮明なのに、このマシュー・ボーンの新版《シンデレラ》の面影はもう朧ろげで、第二幕のスペクタキュラーな空襲場面くらいしか脳裏に蘇らない。
公演では生演奏でなくテープ録音が用いられ、バレエというよりもミュージカルに近い視覚的に派手やかな演出がなされていて、その三日前(12月2日)にコヴェントガーデンで観た「正統的な」アシュトン演出版《シンデレラ》と較べ、あざとく際物めいた印象を受けて興ざめてしまったのだ。
今回の来日公演はサドラーズ・ウェルズ座で2017年に行われた再演に基づく「引っ越し公演」であるらしい。
《マシュー・ボーンのシンデレラ Matthew Bourne's Cinderella》
作曲/セルゲイ・プロコフィエフ
演出・振付/マシュー・ボーン
美術/レズ・ブラザーストン
照明/ニール・オースティン
音響/パウル・フロートハイス
映像/ダンカン・マクリーン
演出舖/エタ・マーフィット
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出演/ニュー・アドヴェンチャーズ
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シンデレラ/アシュリー・ショー
ハリー(米人パイロット)/エドウィン・レイ
天使/パリス・フィッツパトリック
シビル(継母)/アンジャリ・メーラ
ほか
われわれの座席は三階の天井桟敷の最後列なので、サドラーズ・ウェルズの平土間で観たときとは条件がまるで異なる。
空襲のサイレンや爆撃の大音響、燃えさかる紅蓮の炎に全身が包まれるような体験とは程遠く、むしろ事態の推移を距離を置いて冷静に眺める観劇だった。だからかえって、マシュー・ボーン演出の意図がはっきり摑めたような気がする――そう記したら悔しまぎれに聞こえるだろうか。隣席の家人は「できれば平土間で観たかった」としきりに残念がっていた。
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マシュー・ボーン版《シンデレラ》は基本的には物語の展開にほぼ忠実である。主人公は意地悪な継母や姉妹たちから虐められ、家政婦同然に働かされる。原作でシンデレラを援ける妖精は、ここでは銀色の衣服をまとった天使(白髪の青年)として登場する。王子役に対応するのは空軍の米人パイロット。負傷してシンデレラに介抱される。
彼女を家に残して家族たちは着飾って舞踏会に出かけるのだが、向かう先は王宮ではなく、ロンドンのウェスト・エンドに実在したナイトクラブ「カフェ・ド・パリ」。場面は1941年3月8日に設定されている。
この夜、ドイツ軍のロンドン空襲で「カフェ・ド・パリ」は大破し、三十四名の死者と八十余名の負傷者が出た。この史実を踏まえて物語は進行する。第二幕の冒頭、ナイトクラブの炎上がまず示唆され、半ば壊れかけたボールルームで宴が始まり、そこに白い衣裳に身を包んだシンデレラが登場し、パイロットと優美なデュエットを踊る。そのあと時計が十二時を告げるや、ナイトクラブは一瞬にして廃墟と化す。
マシュー・ボーン版はほぼシンデレラ物語をなぞりつつ、英国人にとって忘れがたいロンドン空襲という出来事と結びつけることで、観衆の心をしかと摑んだ。小生がサドラーズ・ウェルズでこの版の初演を観た2010年は、最初のロンドン大空襲からきっかり七十年目だったのである。
そのときのパンフレットでマシュー・ボーン本人が明かしているのだが、この新演出を手がけるにあたり、彼は戦時下のロンドンを描いた往年の映画の数々を熱心に渉猟し、それらから多くのヒントを得たという。
とりわけ指針としたのは、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督作品《天国への階段 A Matter of Life and Death》(1946)だという。デイヴィッド・二―ヴン扮する英国パイロットが死線をさまよいながら、天使の加護を得て恋人のもとに生還するというストーリーだ。新版《シンデレラ》で王子がパイロットに変じ、シンデレラの守護天使が男性として造形されるのは、あの映画からの影響なのだそうだ。
今回の公演を観て改めて気づいたのだが、この舞台にはほかにも往年の映画を発想源にした、あるいは密かなオマージュを捧げた場面がいろいろありそうだ。第一幕でシンデレラが愛しいパイロットを思いながら洋服掛けのマネキン(途中でパイロット本人に変ずる)を相手に踊る場面は、おそらく《恋愛準決勝戦 Royal Wedding》(1951)でフレッド・アステアが帽子掛けと踊る有名なシーンが原型であろう。
第三幕で王子=パイロットは生き別れとなったシンデレラを捜してロンドン中をさまようのだが、そこで登場する地下鉄駅やテムズ河畔の場面は、マーヴィン・ルロイ監督作品《哀愁 Waterloo Bridge》(1940)の諸シーンの反映だろうし、終盤に出るパディントン駅の場面は、間違いなくノエル・カワード脚本/デイヴィッド・リーン監督作品《逢びき Brief Encounter》(1945)への目配せである。わざわざプラットフォームの傍らにティールームを設け、そこに本筋と無関係なシリア・ジョンソン風の人妻を坐らせたのはその証であろう。
こんなふうに書きだすときりがない。バレエとしては多分にミュージカル寄り、映画・演劇寄りの作品に仕上がったが、各場面のダンス・ナンバーはよく考えられており、原作の音楽を決して裏切っていない。
最後にひとつ附言しておきたいのは、プロコフィエフの音楽そのものも、ここで設定された1941年前後に作曲されており、なんとも名状しがたい哀しみの影が付きまとっていることだ。ハッピーエンドで終わるお伽噺であるにもかかわらず、プロコフィエフがまとわせた音楽には戦時下の憂愁と悲哀の色合いが濃い。マシュー・ボーン版《シンデレラ》はその事実を強く示唆するものだ。