昨日(10月7日)は前々から楽しみにしていたサロン・コンサートに出向いてきた。秋が深まったというのに、真夏のように暑く晴れ渡った朝である。地下鉄の本郷三丁目駅から徒歩で五、六分。それだけの距離なのに汗が噴き出る。
本郷通りから路地を左手に入って少し行くと、金魚屋を兼ねたカフェ「金魚坂」が左に見えてくる。ここで月例のサロン・コンサートが催されるのだ。十時四十分の開場まで少し間があるので、日陰のベンチで水槽の金魚を眺めながら額の汗を拭う。
もう何度も記事にしたが、「カフコンス Cafconc」の例会である。ピアニスト川北祥子さんが主宰する集い。大都会東京であまた催される大小のコンサートのなかで、この会ほど小生の向学心や好奇心を刺激する催しはほかにない。今回も凝りに凝った演目で期待に胸が高鳴る。
《 カフコンス 第133回》
ヴォカリーズ集 vol.5〜歌詞のない歌
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プロコフィエフ:《歌詞のない五つの歌》作品35* **
エネスク:《カンタービレとプレスト》** ***
カステルヌオーヴォ=テデスコ:
《ヴォカリーズ・エチュード》作品53* **
ケックラン:《リリアンのアルバム 》第一・二集 作品139&149 より
■ 和解のワルツ**
■ スウィミング** ***
■ スケーティング=スマイリング* ** ***
■ 幸せへ向かう道で* ** ***
~アンコール~
ケックラン: ヴォカリーズ=エチュード* ** ***
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ソプラノ/柳沢亜紀*
ピアノ/川北祥子**
フルート/中村 敦***
ヴォカリーズとは歌詞のない歌曲。通常「ア、ア~」もしくは「ラ・ラ・ラ」のように歌われ、ラフマニノフの名作のように芸術歌曲として広く知られる例もあるが、たいがいは声楽の練習用に書かれ、著名な作曲家がしばしば手がけている割に、これまで顧みられる機会がほとんどなかった。
慧眼にもそこに着目し、忘れられたヴォカリーズの佳作の発掘に挑んだのが「カフコンス」のシリーズ「ヴォカリーズ集」なのである。今回はその第五回目になる。
十一時きっかりに開演。一曲目のプロコフィエフ《五つのメロディ》(1920)は、作曲者と親しかった名ソプラノ歌手ニーナ・コシェッツ(コーシツ)の急な依頼で書かれたもの。
プロコフィエフは旅先だったため、手頃な詩集を参照できず、やむなく無歌詞のメロディになったという経緯だったと記憶する。原曲が唄われる機会は少なく、むしろヴァイオリンとピアノ用の編曲版が人口に膾炙していよう。小生もオリジナル版を生で聴くのはこれが初めて。
シリーズ「ヴォカリーズ集」の常連ソプラノである柳沢さんは堂々たる声量と歌いっぷりで、プロコフィエフの旋律美を極限まで歌い上げる。川北さんのピアノも、微に入り細を穿つニュアンスに満ちたものだ。レコードでは可憐な小唄集だとばかり思っていたこの小曲集から、こんなにも広々とした世界が開けるとは驚きだ。
続くエネスクの《カンタービレとプレスト》(1904)はフルートとピアノのための技巧的な小品。パリ音楽院のコンクール課題曲として書かれた作品といい、早熟なエネスクの二十三歳の若書きである。フルート曲に不案内な小生は初めて聴いたが、この楽器の特性をよく弁えた美しくも煌びやかな佳作なのだ。奏者の柳沢氏はおそらく二十代前半かとお見受けするが、確実な技巧と透明な音色を兼ね備えた逸材である。今日の演目のなかでは、教育用に書かれたヴォカリーズの木管楽器版という位置づけなのだろう。
次のカステルヌオーヴォ=テデスコの《ヴォカリーズ・エチュード》(1928)は、パリ音楽院声楽科のエティッシュ教授がさまざまな作曲家に委嘱した有名な《ヴォカリーズ=エチュード集》(全150曲以上の大コレクション)の第六十三番目にあたるという小品。これまた全く未知の作品だ。一聴すぐ明らかなように、ユダヤ色のきわめて濃厚な「嘆き節」である。歌詞はないのに、いやむしろ、それだからこそ憂愁と悲哀が切々と滲みでる。
そして後半は小生にとって最大の聴きものであるシャルル・ケックランの《リリアンのアルバム》(1934/35)からの四曲だ。
稀代の映画フリークだったケックランは英国の女優リリアン・ハーヴィにぞっこん惚れ込んで、彼女の主演作品に触発され、その名場面に想を得て夥しい小品を書いた。謹厳な学究肌の大家の思いがけずミーハー的な一面が露呈した作品群といえよう。とりわけピアノとソプラノ、フルート(ときにクラヴサンやオンド=マルトノも加わる)のための《リリアンのアルバム》には、可憐で蠱惑的で神秘的で、いとおしい魅力に満ちた小品が数多く含まれることは、ケックラン好きならば先刻ご承知だろう。
カフコンスでは十二年ほど前に「ケックランと女優たち」と題して《リリアンのアルバム》からの数曲を紹介していた(→その日の拙レヴュー)。
今回は同じ《リリアンのアルバム》から、とびきり美しい撰りぬきの四曲が披露される。ケックラン愛好家たるもの、昂奮せずにいられようか。この稀な機会を逃すべからず。
企画者の川北さんの解説によれば、ピアノ曲「和解のワルツ Valse de la réconciliation (à Jenny Berger, du Casino Grenelle)」はヴィルヘルム・ティーレ監督作品《踊る奥様 Zwei Herzen und ein Schlag》(1932)に想を得た曲だそうで、新妻ジェニーが舞台で活躍を夢見て家出、夫と別れてパトロンと再婚しようとするが、舞台でうまく踊れない妻を夫が助けて和解、公演も大成功する、というストーリーとのこと。
フルートとピアノのための「スウィミング Swimming (à Gladys Allauran en souvenir du film "Calais-Douvres")」はアナトール・リトヴァク監督作品《女人禁制 Nie Wieder Liebe》(1931)は、大金を賭けて女人禁制の誓いをたててヨット旅行中の富豪が、溺れかけた美女グラディスを助けて心惹かれ、それは賭けの相手が仕掛けた罠だったのだが、溺れたふりをしていたグラディスも彼に惹かれて... という恋愛喜劇であるらしい。川北さんによれば「フルートによるリリアンのテーマがピアノの波間に見え隠れしていて、泳いでいるのか溺れているのか、はたまた溺れる演技なのかが気になる」とのこと。
ソプラノ、フルート、ピアノが勢揃いする「スケーティング=スマイリング Skating-smiling (à Mizzi, manucure)」は、ケックランが初めて観たハーヴィの主演映画であるハンス・シュヴァルツ監督作品《女王様御命令 Ihre Hoheit befiehlt》の仏語版《Princesse, à vos ordres》(1931)の一場面に基づく。ケックランは王女ミッツィがお忍びで外出し、街の若者とスケートリンクでデートするシーンが特にお気に召したそうな。
同じソプラノ、フルート、ピアノの「幸せへ向かう道で En route vers la bonheur (à Madmoiselle Christine Weinsinger)」は、リリアン・ハーヴィ最大のヒット作であるエリック・シャレル監督作品《会議は踊る Der Kongreß tanzt》(1931)に因んだ小品である。皇帝に見初められた町娘クリステル(クリスティーネ)は招かれて皇帝の別荘に馬車で向かう。ハーヴィが晴れやかに唄う、世にも名高い「唯一度だけ Das gibt's nur einmal」の名場面なのだが、ケックランはハイマン作曲の音楽が気に入らず、独自にこの場面を念頭に作曲したのがこの「幸せへ向かう道で」だろう、というのが川北さんの推理である。
そこまでは知らなかったなあ! リリアンに寄せたケックランの思いの深さ、一途な熱烈さが偲ばれようというものだ。
お三方の演奏と歌唱は実に見事なもの。小生はうっとり夢心地で聴き惚れた。アンコールはやはり同じ編成によるケックランの《ヴォカリーズ=エチュード》。これは初めて接した。
そんな次第で、一時間弱のカフェ・コンサートは瞬く間に終了。間違いなく、これが本年度のわがベスト・ワンの演奏会である。