初めて観たのは池袋の文芸坐「陽の当たらない名画祭」だったろうか。トリュフォーの《恋のエチュード》と二本立だったような気がする。今はなき名画座「八重洲スター座」や「三軒茶屋映劇」で見直した記憶もある。最後にスクリーンで観たのは...、それはもう思い出せない。今世紀に入ってから再見していないのは確かである。
《恋》とはどうにも無粋で平凡な味気ない邦題をつけたものだが、原題は "The Go-Between" という。
すなわち「仲介役」の意味で、これは主人公の少年が年上の女性に憧れた挙句、彼女のため秘密の恋文の配達役を買って出る、というストーリーから来ている。強いて訳すなら「恋の取り持ち役」あるいは「文遣い」だろうか。この年上の女性を演じたのがジュリー・クリスティなのである。
原作はL・P・ハートリーの英国小説。原題は同じく "The Go-Between" だ(1953年刊)。かつて新潮社から『恋を覗く少年』という、これはなかなか含蓄ある題で邦訳が出ていた(蕗沢忠枝 訳)。公開時に角川文庫から別の邦訳が出たが、こちらは映画と同じく『恋』と題されていた(森中昌彦 訳)。
舞台は今世紀初頭の英国のカントリーハウス。夢のように美しい田園風景のなか、お屋敷の令嬢と使用人の若者との「身分違いの恋」が秘やかに始まって、やがて悲劇的な結末を迎えるのだが、その一部始終を館に寄宿する少年がつぶさに目撃してしまう…というストーリーだった。
暗闇のなかスクリーンを眺める私たちもまた、劇中の少年のまなざしを介して、「年上の女」の輝かしい美貌を憧れをもって見つめるのだ。
物語の設定からして、一見したところいかにも英国風の上品なコスチューム・プレイにみえる(実際そういう映画ではある)が、さすがジョゼフ・ロージーは只者ではない、冷ややかな感触がそこはかとなく全篇に漂い、取り返しのつかない過去への悔恨と無常感がひたひたと押し寄せる。
こういうフィルムこそ、一度でいいから映画館の大きなスクリーンで見直してみたい。手元にDVDもあるにはあるが、自宅の小さな液晶画面はこの映画の魅惑の片鱗も伝えてはくれないだろう。むしろ初公開時のポスターを取り出して、わが尽きせぬ憧れを密かに投影してみる。
少し前に来日した英国の音楽学者アンソニー・プライヤー教授の講演を聴きにいったら、開口一番ハートリーの "The Go-Between" の一節、"The past is a foreign country; they do things differently there."(過去は異国である。そこでは人々が異なった振舞をする)が引用され、軽い眩暈を覚えたものだ。
■「過去は一つの異国である。その国の人々は、ぜんぜん違った生きかたをしている。」――L・P・ハートレイ『戀を覗く少年』蕗澤忠枝譯、新鋭海外文學叢書、新潮社、1955年。
■「過去は異国である。そこでは人々の生き方がまるで違う。」――L.P.ハートレー、森中昌彦訳、角川文庫、1971年。