台風接近の夜、もう少しプロコフィエフを聴いていたい。このディスクのことはもう何度も話題にしたのだが、性懲りもなく今日またしても聴く。致し方あるまい。理由はいたって単純。好きなんだから。
"Prokofiev: Œuvres pour piano"
プロコフィエフ:
《ロミオとジュリエット》からの十の小品 作品75
■ 民衆の踊り (第一組曲-1)
■ 情景 (第一組曲-2)
■ メヌエット (第一組曲-4)
■ 少女ジュリエット (第二組曲-2)
■ 仮面 (第一組曲-5)
■ モンタギュー家とキャピュレット家 (第二組曲-1)
□ 賓客たちの退出 (ガヴォット/バレエ-18)
■ 修道僧ロレンツォ (第二組曲-3)
■ マーキューシオ (バレエ-15)
■ 百合の花を手にした娘たちの踊り (第二組曲-6)
■ 別れを前にしたロミオとジュリエット (第二組曲-5)
ソナタ 第二番 作品14
前奏曲 ハ長調 作品12-7 ~十の小品
行進曲 ~《三つのオレンジへの恋》作品33
ソナタ 第三番 作品28
悪魔的暗示 作品4-4 ~四つの小品
ピアノ/ガブリエル・タッキーノ
1990年10月11、12日、エクス=アン=プロヴァンス
Pierre Verany PV.791022 (1991)
→アルバム・カヴァー歴代のロシア人ピアニストが弾くプロコフィエフとは全く趣を異にし、透明な音色で明晰に潑溂と弾かれた楽曲たち。でも小生にはこのタッキーノの演奏が好もしく思える。
もっともそれは本CDとほとんど同一のプログラムを収めた旧録音(仏
La Voix de son Maître, 1960s)の日本盤を擦り切れるほど聴き込んだからだ。これこそピアノによるプロコフィエフ演奏のわが「刷り込み」であり、すっきりさっぱり、小股の切れ上がったこの瀟洒な演奏こそがプロコフィエフの身上なのだと永く信じていた。
三年ほど前の旧稿から感想を引く。
プロコフィエフのバレエ《ロミオとジュリエット》は1936年に全曲が仕上がっていたにもかかわらず、舞台初演の目途がなかなか立たず(スターリンの大粛清による現場の混乱が要因らしい)、業を煮やした作曲家は主要場面を独自に再編した管弦楽用の組曲(第一&第二)と、そこから更にピアノ独奏用に編曲した「十の小品」とを、云わば「見切り発車」ふうに初演してしまった。今日でもそれらはバレエ本体に勝るとも劣らぬ知名度を誇り、演奏機会も頻繁にある。
さてタッキーノの再録音CDでは「十の小品」の合間に、有名な《古典交響曲》の第三楽章「ガヴォット」がこっそり挿入されているところが面白い。周知のとおり、バレエ《ロミオとジュリエット》の第一幕第二場には「賓客たちの退場」と題して、このガヴォットがそっくりそのまま引用されており(第十八曲)、タッキーノはその故事に倣って同曲をバレエ音楽(による組曲)の一部として組み込んだのである。
タッキーノのプロコフィエフの美質はその《ロミオとジュリエット》小品集にくっきりと顕れている。敏捷さが際立つリズム感、胸のすくような明快なタッチ、濁りや淀みのない透明な和声。いかにもフランス人らしい流儀だが、プロコフィエフの音楽の背後に潜む明晰で均衡のとれた古典的感覚(それは一脈ラヴェルにも通じるもの)をこれほど如実に感じさせる演奏は他にない。
後半に奏される初期作品もまた掬すべき秀演揃いだ。とりわけ第二・第三ソナタが情と知を兼ね備えた見事な仕上がりだと思う。「悪魔的暗示」のような曲ですら、刺々しい原始主義は後景へと退き、目くるめく感覚的な閃きを機敏な耳が捉えて過たずに形象化した趣。こういうプロコフィエフ、ロシアのピアニストからは聴けない類の音楽だろう。もしもタッキーノが小品集《束の間の幻影》を弾いてくれたなら、さぞかし目醒ましい決定的名演になるに違いない。
いやはや今こうして聴いていて胸中に浮かぶ感想もこれとおんなじだ。何年たっても進歩も変化もしない自分自身の感性にちょっと微苦笑する。
ひとつだけ附言するならば、タッキーノが《ロミオとジュリエット》にこっそり挿入した《古典交響曲》の「ガヴォット」は、プロコフィエフ自身によるピアノ編曲。そしてこの編曲こそは、1918年7月、日本滞在中のプロコフィエフが山王大森の「望翠楼ホテル」で無聊を慰めるべく手がけたものに違いない。