はるばる川崎市市民ミュージアムまで出かけた。往還するだけで四時間かかる。それでも出向いたのは「ロシア革命とグラフィック表現――ソビエト絵本とその時代」なる企画展示をやっていると仄聞したからだ。
教えてくれた友人は「絵本は二十冊ほど。ごく小さな展示なので、沼辺さんがわざわざ出向くほどのことはないですよ」と助言してくれたのだが、そう云われると却って観たくなるのが人情というものだ。
情けないのは部屋の一郭に、付け足しとして硝子ケースに申しわけ程度に並べられたロシア絵本の展示だ。全部で21冊あったが、すべて町田市立国際版画美術館から借りてきたものだという。
出品作のセレクションは見るからに雑然としており、選び抜いた形跡はない。マルシャーク&レーベジェフの《昨日と今日 Вчера и сегодня》のような傑作があるかと思えば、無名作家のいかにも凡庸な絵本もある。多くは1930~31年に刊行されており、その大部分は当時「ナウカ社」が輸入し、神田神保町の店頭に並べられたものと想像される。旧蔵者が誰なのか、どういう経緯で町田の美術館に入ったのか、ぜひ知りたいものだ。
それはともかく、この展示の企画者はこの21冊のロシア絵本で、いったい何を訴えたいというのだろう。「とりあえず借りてきたものをただ並べました」の域を一歩も出ておらず、展示の意図がまるで伝わってこないのである。近所の八百屋や魚屋だって、もっと店頭で工夫を凝らしている。
キャプションが間違いだらけなのも恥ずかしい。
出品番号45 の《石油 Нефть》(1931)の作者は「シフリン(文)」と「カジナ(絵)」とあるが、正しくはハージン(文)、シフリン(絵)である。ナタン・シフリンは屈指のロシア絵本画家のひとりなのだ。
出品番号54 の《糊なしで紙から Из бумаги без клея》(1931)の作者は「ユリン(文)」と「エルモラエド(絵)」とあるが、この切り抜き絵本には本文はなく、レフ・ユージンとヴェーラ・エルモラーエワが絵を共作しているのだ。スプレマチズムの有力な推進者だったユージンとエルモラーエワの名を平然と誤記するのは、ロシア・アヴァンギャルドに対する冒瀆である。
44《擬装 Маскировка》(1930)の作者は「ヴィリエフ」でなくブィリエフ(Былиев)、47《夏 Лето》(1931)の画家は「アヒーエム」でなくアフメチエフ(Ахметьев)、56《マルシャークのなぞなぞ Загадки Маршака》(1931)の画家は「アフメーチェバ」でなく、これまた同じアフメチエフ(Ахметьев)、50(後述)の画家は「フライベルカ」でなくフレイベルグ(Фрейберг)、58《沼 Болото》(1931)の作者は「ビアンスキ」(!)でなくビアンキなのだ。
57《菜園 Огород》の作者「グゴフスキー」も、正しくはチュコフスキー(Н. Чуковский)だし、挿絵を描いたウラジーミル・コナシェーヴィチ(レーベジェフと並ぶ絵本画家)の名を書き洩らすのは迂闊すぎる。
絵本の邦題だって実に妙ちくりんなのだ。
42 は《905番目 девятьсот пятый》とあるが、これはどう考えても挫折した革命の年《1905年》のことだろう。
50 は《私たちの検査 Наш смотр》とあってどんな検査なのか意味不明だが、なんのことはない、《私たちの行進》《私たちのパレード》と訳せばいいだけの話。一体全体どうなっちゃってるの?
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目下この美術館では「かこさとしのひみつ展」が開催中だが、入場料が要るのはここだけ。並行して無料スペースで常設展示のほか、四つもの企画展示「時習学校と文山先生」「川崎セツルメントーー地域に根差した社会事業」「昔のくらしと家庭の道具」そして「ロシア革命とグラフィック表現――ソビエト絵本とその時代」を併催している。小生と家人はその全部を観た。
実になんとも鷹揚な椀飯振舞というべきだが、だからといって内容の吟味が疎かになったのでは元も子もない。
近年ここの学芸員がどんな顔ぶれなのか小生は知る由もないのだが、なすべき最低限の仕事を手抜きしては、遠路はるばる訪れた鑑賞者を裏切り失望させるだけだ。それがどんな結果をもたらすのか、もう一度よく考えたほうがいいと思う。もう当分の間ここには足を運ぶまい。