1930年代のアメリカはなんとも不思議な国だった。
世界恐慌下で未曾有の不景気に喘ぐ労働者救済のため、ローズヴェルト大統領の肝煎りでWPA(公共事業促進局)が発足し、その一部門であるFTP(連邦演劇計画)では職にあぶれた劇作家・俳優・スタッフたちを雇用し、国民に上質で斬新な演劇や舞踊を安価で提供しようとした。まるで1920年代のモスクワと見紛うばかりの施策が実行に移されたのだ。
作曲家で筋金入りの社会主義者マーク・ブリッツスタインは、自らの台本で鉄鋼労働者のストライキを題材とする「労働オペラ」《揺籃(ゆりかご)は揺れる The Cradle Will Rock》を作曲し、上演の機会を探っていた。
これにいち早く着目し、自らの劇団「プロジェクト891」での上演を持ちかけたのが、二十二歳の天才演出家オーソン・ウェルズだった。「プロジェクト891」はFTPから全面的な資金援助を受けており、国家予算により過激な社会主義演劇が上演されるという、ちょっと信じがたい事態が到来しようとしていた。1937年の初夏のことである。
一旦は上演計画が認められたものの、(当然のことながら、というべきか)当局から横槍が入った。リチャード・フランスの『オーソン・ウェルズ 青春の劇場』(山崎正和訳、講談社学術文庫、1983)から引く。
『揺籃は揺れる』は、急進的な労働者の方針を擁護していたので、さほど鋭い政治的洞察に頼らずとも、ワシントンの官僚の抵抗にあうことは予想された。『揺籃は揺れる』を上演するとの三月の発表から、予定された六月の開演までのあいだに、連邦演劇計画そのものに対する政界の支持は、多くの妨害を蒙った。計画に対する反対者を阻止しようと、全国ディレクターのハリー・フラナガンは、公式の検閲官が『揺籃は揺れる』の総ざらいに出席するように手配した。この芝居にはさぞ反対が出るだろうと予想されていたのに、ワシントンからきた検閲官は、それを「すばらしい!」と断言した。
[...] ところが、『揺籃は揺れる』が開演される四日前の六月十二日になって、予算上の都合で、七月以前にはいかなる文化的事業もはじめてはならぬという覚え書きが、すべての制作指揮者たちに送られてきた。ハウスマン [「プロジェクト891」のプロデューサー、ジョン・ハウスマン] とウェルズは、この突然の機会に飛びつき、まるでそれが『揺籃は揺れる』だけに対して向けられたように、この覚え書きに反発してみせた。彼らは上演の延期をきっぱりと拒絶した。
事態はもはや万事休す。開幕初日のチケットは完売していたのに、肝心の初演場所であるブロードウェイのマクシン・エリオット劇場は閉鎖されてしまい、用意した舞台装置や衣裳は差し押さえられた。
出演予定の俳優やオーケストラのメンバーは、全員がFTPとの契約条項に縛られていた。役者は舞台に立てず、奏者はピットに立ち入ることが許されていないのだ。劇場と出演者を失った《揺籃は揺れる》の上演は不可能だ、と誰もが諦めかけた。
ところがこのときウェルズたちは一計を案じ、マクシン・エリオット劇場から数ブロック離れたヴェニス劇場を急遽おさえ、マクシン・エリオット劇場の前で八時の開幕を待ちわびる数百人の観客たちは、促されるまま徒歩でブロードウェイ街区の北へと移動を開始した。
[...] 九時きっかりに、彼 [ハウスマン] は観客の前に姿を見せ、「観客と分けあたえられるまでにできあがった段階」に達しているとわかっている作品を、上演してはならぬという政府の独断的、かつ不当な支持を、「芸術家として、演劇人として、われわれは無視せざるをえなかった」と告げた。
ところで、観客の分けあたえられたものは、空の舞台に置かれたピアノにただ一人向かうマーク・ブリッツスタインと、オーケストラ・ピットやボックス席やバルコニーや、すなわち、舞台を除くあらゆる場所から台詞を話す役者たちであった(このようにして、俳優組合からの出演禁止指令は実行されたのであった)。それは電撃的な感動の公演だったし、全国の新聞の大見出しになった。
このオペラの作者であるブリッツスタインは、役者でも演奏者でもなかったから、関係者のうちただ一人「合法的に」舞台に立つことが可能だったのだ!
信頼に足るオーソン・ウェルズ評伝であるバーバラ・リーミングの『オーソン・ウェルズ 偽自伝』(宮本高晴訳、文藝春秋、1991)では、観客に語りかけたのはウェルズ自身ということになっている。
試演初日ぎりぎりに新しい劇場が確保できた。開演予定時間直前に、マキシン・エリオット劇場に集まっていた客たちは住宅地区にある古いヴェニス劇場へと案内された。百人あまりの立ち見客を含む満員の観客席を前にして、興奮の面持ちのオーソンは、ヴァージル・トムソン形容するところの「この世で最高に美しい声」で、政府の干渉がなければどんな舞台を目にできたかを説明した。それから劇が始まり、使い古しのピアノを叩きながら、マーク・ブリッツスタインが『揺籃』の物語を語りはじめた。照明係のフェイダーに与えられたのは一個のスポットライトだけだったので、観客席の俳優が突然声を張り上げると、居場所を探すために劇場じゅうにスポットライトを走らせなければならなかった。こういう状況のため、計り知れぬ緊張が劇に漲った。芝居は無事に進むだろうか? 来ていない俳優のところは誰が歌うのか? 歌い終わる前にスポットライトは俳優をとらえられるだろうか? 政府の役人が踏みこんできて上映を中止させはしないか? この夜の公演がどんな反響を呼び起こすだろうか? あとでオーソンは観客に向かって「この公演は政治的抗議ではなく、芸術的抗議でした」と語っているが、ある意味でその言葉は正しかった。少なくとも彼の動機は芸術にあった ーーだが、予想どおり、一夜明けた政府の反応はまた別物だった。"WPAオペラの出演者お仕置きを恐れる" が「ニューヨーク・ポスト」の見出しだった。
[...] オーソンはハウスマンと相談して、ヴェニス劇場で六月十八日金曜日から二週間、いまのままの簡潔なかたちで上演を行うことにきめた。このときまでには俳優組合も先の決定を取り消していて、『揺籃』の出演者は晴れて舞台に上がれるようになっていたものの、状況を見るに敏なオーソンは今までどおり俳優を観客席においたままにした。891がマスコミに語ったように、そのほうが「芝居をおもしろく見せる」からだった。
当局の禁令の裏をかく形でまんまと初演に漕ぎつけたオペラ《揺籃は揺れる》の成功は、作者マーク・ブリッツスタインと演出家オーソン・ウェルズの名声を、文字どおり一夜にしてアメリカ全土に広めることになった。この上演の経緯については多くのウェルズ研究書のみならず、ブリッツスタイン評伝でも詳しく物語られている(細部は少しずつ異なるが)。
1990年代初め、これらの書物を読み耽った小生は、このくだりにさしかかると、劇的な出来事の連鎖を脳裏に思い浮かべながら胸躍らせたものだ。なんという驚くべき時代だったことか!
2000年にはこの実話に取材したティム・ロビンズの製作・脚本・監督による劇映画《クレイドル・ウィル・ロック Cradle Will Rock》(1999)が日本でも公開され、それまで幾度も夢想していた一部始終がそっくりそのままスクリーンに展開されるのを観て、大いに昂奮したものだ。
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思いがけない成り行きから、ピアノ伴奏での初演を余儀なくされ、それが望外の成功を収めたのは、このオペラの作者ブリッツスタインにとって果たして良かったのか、悪かったのか?
翌1938年に収録された初演キャストと作曲者のピアノによるSP録音(ブロードウェイにおける史上初の「オリジナル・キャスト」版である由)を嚆矢として、何度かのリヴァイヴァル公演に際してレコードに刻まれた《揺籃は揺れる》は、例外なくすべてピアノ伴奏で収録されたものだ。ブリッツスタインが丹精をこめたオリジナルのオーケストラ版を耳にする機会は(少なくとも音盤の上では)絶えて訪れなかった。つい最近までは。
今日ようやくわが家に届いた《揺籃は揺れる》のCD全曲盤は、1937年のオリジナル編成によるオーケストラ譜を用いた史上初の録音なのである(米Bridge Records, 2018 →アルバム・カヴァー)。
昨2017年7月、サラトガ・スプリングズのスパ・リトル・シアターでの復活上演に際してライヴ収録された。指揮は当代随一のブリッツスタイン解釈者ジョン・マウチェリ。外箱の表面には誇りかに "First complete recording" の文字が躍っている。これを手にして冷静でいられようか!