昨晩は棚からこの本を捜し出して熟読した。250ページほどの軽装ペーパーバックだが、盛り込まれた内容はずしり重たい。
奥住喜重
中小都市空襲
三省堂選書
1988年
→書影
1945年3月10日の東京大空襲は人家が密集する市街地を襲い、一夜にして十万余の市民を焼死させた。ほどなく名古屋が、大阪が、神戸が、蒲田と川崎が、同様にして夜間の焼夷弾攻撃に見舞われた。B29による大都市空襲はまことに熾烈を極めた。
こうして大都市があらかた焼き尽くされると、米軍は日本全国の中小都市をターゲットに、同じ手法で焼夷弾による戦略爆撃を執拗に繰り返した。被災した都市の数は実に五十七。北は青森市から南は鹿児島市まで、文字どおり日本列島の街という街がくまなく戦火に晒されたのだ。
本書は1945年6月17日から8月15日の降伏に至る二か月間、太平洋戦争末期に集中して行われた「中小都市空襲」に焦点を合わせ、米軍が残した詳細な『作戦任務報告書』を読み解きながら、その恐るべき実相に迫ったものだ。
著者の奥住氏は1923年に八王子で生まれ育ち、空襲当時も同地に暮らしていたが、たまたま仕事の出張で留守にしていた8月2日未明、生家を含めた八王子市域の大半を焼き尽くされた。実に市街地の八割が烏有に帰したという。
この原体験に突き動かされて、同氏は1979年から「八王子空襲を記録する会」の中心メンバーとして、粘り強く調査にあたってきた。本書はその地道な探究の成果を踏まえ、中間報告として書かれたものだ。
奥住喜重の名に「おや!」と反応された向きは、子供の頃に天文学や科学史に関心を抱いた方に違いない。かつて岩波新書から出た優れたコペルニクス評伝、アンガス・アーミティジ著『太陽よ、汝は動かず』(1962)の訳者がほかならぬ奥住氏だったからだ。
氏は東京理科大で物理学を学んだのち、郷里の八王子で高校教諭を務めるかたわら、翻訳と著述に力を注いできた。小学生高学年になった時分、小生も背伸びをして、氏が訳されたアーミティジのコペルニクス伝を読み耽ったものだ。達意の翻訳だったのをよく憶えている。
その奥住氏が生まれ育った土地に根ざして、自らも被災した八王子空襲の実相を突き止めるべく調査研究に没頭しておられるのを、小生は本書が出たときに遅れ馳せながら初めて知った。
ページに挟み込まれたレシートをみると、奥付にある刊行日からわずか二週間後の1988年7月29日、渋谷の放文社で購入したことがわかる。エルミタージュ美術館のムック本の編集で日本放送出版協会に通い始めた頃のことだ。
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それにしてもこの本は凄い一冊だ。
本書が主題とする中小都市空襲に関して、日本側の資料は悲しいほど貧弱である。戦後しばらくして報告書は編まれたものの、調査はすこぶる不十分で、おおまかな死者数すら詳らかでない。
被害が甚大だった八王子市を例にとれば、奥住氏らが調査を開始するまで、死者数は二十八から三百九十八まで資料によってまちまちだったという。敗戦による混乱があったとはいえ、日本側の調査の杜撰さは目に余る。奥住氏が「空襲による死沒者数を知り得るという期待は消えてなくなる」「戦争においては、市民個人の存在は無に帰する」と慨嘆するとおりである。
そこで奥住氏が依拠したのは、攻撃を実行した米軍側の一次資料たる「作戦任務報告書」である。空襲が行われるたびごとにマリアナの第二十一爆撃機集団司令部と第二十航空軍司令部が作成した詳細な報告である。
当然ながらこれらの報告書は機密文書扱いだったが、作成から二十五年を経て機密が解除され、ワシントンの国立公文書館で閲覧が可能になった。日本の国会図書館にもそのマイクロフィルムが入り、ようやく実証的な研究が可能となった。1981年のことである。
本書の凄さとは、だから本書の記述内容が全面的に依拠した米軍の「作戦任務報告書」の凄さにほかならない。
報告書から見えてくるのは、綿密に練られた作戦計画と、遂行における周到かつきめ細やかな対応である。
空襲の対象都市は事前の調査と偵察飛行で詳しく調べられ、投下される焼夷弾の種類と数は無駄なく算定される。夜陰に乗じた急襲だが、戦闘機には最新鋭のレーダーが装備されたため、高射砲の届かぬ高高度からも、かなりの精度で目的地点に着弾できた。攻撃前には当該地域の天候も可能な限り予測され、報告書にはそのつど天気図や気象データが書き添えられている。
時に不首尾や目標不達成がないではないが、その場合はすぐさま反省点が洗い出され、失敗は二度と繰り返されず、教訓として以後の作戦立案に生かされた。臨機応変の柔軟な体制が組まれていたのである。
当時の米軍が日本軍を物量的に圧倒していたのは紛れもない事実だが、違いはそれだけでなく、戦争遂行におけるプロフェッショナルな姿勢、理知的で頭脳的な対応において、両者には雲泥の差があったといわねばならない。読み進むにつれ、どうにも絶望的な気分になる。現実に行われたのは非戦闘員への容赦ないジェノサイドにほかならないが、その遂行には綿密周到な計画と冷静沈着な判断力の裏付けがあったのである。
奥住氏はこう総括する。「アメリカ軍にとって、戦争は技術であった。彼らは計量し計算して考え、考えてはまた計算し計量した。彼らは情緒に走ることは極力押えていたらしく見える。一つの作戦は次の作戦のための試行であり、試行は計算されて次の試行を生んだ。作戦任務報告書はそのための実験レポートであり、そこでも情緒や気まぐれは追放されていた」。
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著者の筆致は科学者らしく、あくまでも冷静で客観的。空襲が人道的に是認できるか否かを論じるのではなく、中小都市空襲とはいかなるものか、ひたすらその実態を淡々と記述しようと努める。すべての議論はそのあとだ、と問わず語りに主張しているようにも読める。
小生は奥住喜重さんの謦咳に少しだけ接したことがある。大学時代の1972~73年、切手蒐集家団体「日本郵趣協会」の科学者切手サークルに所属して、月一回の例会で同サークルの代表を務める奥住さんと親しくお目にかかった。
1973年はコペルニクス生誕五百年にあたっており、母国ポーランドをはじめ世界各国で彼の記念切手が陸続と発行された。コペルニクス伝の訳者である奥住さんは当然そのすべてを蒐集しようとしたし、コペルニクスの遺著『天球の回転について』の高価な肉筆本ファクシミリを手に入れた、と相好を崩して語られたのも覚えている。当時五十歳前後だったろうか、小生の目には温厚な初老の紳士に見えた。
常に柔和な笑顔を絶やさず、物静かな語り口が今も印象に残っているが、その裏には若き日の空襲体験を片時も忘れることなく、その実態に迫ろうとする密かな熱意が炎となって燃えていたのだろう。
本書を皮切りに、奥住さんは早乙女勝元との共著『東京を爆撃せよ——作戦任務報告書は語る』(三省堂、1990)、工藤洋三との共訳『米軍資料 原爆投下の経緯――ウェンドーヴァーから広島・長崎まで』(東方出版、1996)、日笠俊男との共著『米軍資料 ルメイの焼夷電撃戦』(吉備人出版、2001)など、また単著では『米軍新資料 八王子空襲の記録――準備・計画から発令・実行・評価まで 』(揺籃社、2001)、『B–29 64都市を焼く――1944年11月より1945年8月15日まで』(揺籃社、2006)を著した。大戦末期の都市空襲のあくなき探索は、文字どおり奥住さんのライフワークとなったのである。
その後ついにお目にかかる機会を逸してしまった。ネット上に詳しい情報はないが、奥住さんは2014年に九十一歳で亡くなられたようだ(2015年8月に出た研究誌『空襲通信』第十七号に「奥住喜重氏追悼特集」が組まれた)。この場を借りて、謹んでご冥福をお祈りするとともに、空襲の実相に肉薄し、数多くの貴重な資料群を後世に伝えた偉業を偲びたいと思う。