【承前/7月13日(金)午後は念願の「ヴィテプスク展」(後篇)】
正直なところポンピドゥー・センターが好きになれない。何が嫌いかって、何よりもあの建物がだ。「いつまで経っても工事用の足場が外れない」と揶揄しないまでも、あのように四方をガラスで囲われたフロアに無理やり壁を立て、四角い展示空間に仕立てようという設計理念には問題がある。自慢の20世紀コレクションだってほうぼう欠落や偏りが目立ち、ニューヨークはおろか、ロンドンやデュッセルドルフの収集にすら及ばない気がする。あれを無暗に褒めそやす人の気が知れない。
密かにそんな悪態をつきながら、ガラスのパイプ状の長いエスカリエを延々と上昇していく。上がるにつれパリの眺望が開けてくるのは悪くないが、透明だったガラスが古く汚れて興醒めだ。しかも夏場は蒸し風呂さながら、むっとする暑さに、額から汗が滴り落ちる。いやはや酷いものだ。
やっと辿り着いた最上階(五階)が目指す展覧会「シャガール、リシツキー、マレーヴィチ/ヴィテプスクのロシア・アヴァンギャルド 1918–1922」の開催場所。汗を拭き拭き、そそくさと会場に足を踏み入れる。
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会場に入ると、まず初期のリシツキーがキエフで手がけたユダヤ民話による書物《一匹の仔山羊 חַד גַדְיָא / Had Gadya》(1919)の挿絵が目に入る。後年のスタイルとは似ても似つかぬ、シャガールそっくりの童話的で鄙びた作風だ。ところがその表紙カヴァー(初めて観た)は本の中身とまるで異なり、純然たる抽象デザインを示す。革命の時代にあって、目まぐるしく変転する当時のロシア人美術家のありようを象徴するような作品だ。
この最初のセクションには、1919年にヴィテプスクに創設された人民美術学校に呼び寄せられた教授たちの作品が集められる。リシツキーもその一人だったわけだが、そのほかシャガールと彼の恩師である画家ユーリー・ペン、彫刻家ダヴィッド・ヤケルソン、画家ムスチスラフ・ドブジンスキー、ロベルト・ファリクなど、多士済々の顔ぶれが参集する。
ただし教授たちの作風は新旧まちまちで、ロシア・アヴァンギャルドの一語ではとても括れない。この多種多様な作風の混在、呉越同舟ぶりが、発足当初のヴィテプスク人民美術学校の状況を物語る。隣の一郭には1918年秋にヴィテプスクで催された革命一周年の祭典を撮影した貴重なニュース映像がスクリーンにエンドレスで投影されている。シャガールが祭典用にデザインした屋外装飾がちらと映るというが、不鮮明な画面ではよくわからない。
次のコーナーには、美術学校にアトリエを開設していた彫刻家ヤケルソンの稀少な作例(彫刻とデッサン)が並ぶ。キュービックな形象を用いた面白い作風だ。ヴィテプスクに建造されたという彼の《カール・リープクネヒト追悼記念碑》(1920)は、革命の時代を彷彿とさせて興味が尽きない。
このあたり、十年ほど前に英訳が出て読んだアレクサンドラ・シャツキフ(Aleksandra Shatskikh)女史の労作 "Vitebsk: The Life of Art" (2007) の記述のあれこれを思い出しながら、小生は面白く観た。ヴィテプスクを舞台とする展覧会を観られようとは思ってもみなかった。昂奮を抑えきれない。
次のセクションは「ヴィテプスクのシャガール」とでも呼ぼうか。《ワイングラスを持つ二重肖像画》(1917~18、ポンピドゥー・センター)、《街の上で》(1914~18、トレチャコフ美術館)、《結婚》(1918、トレチャコフ美術館)、《白い襟のベラ》(1918、ポンピドゥー・センター)と、この時期の代表作が並ぶさまは壮観である。すぐ近くの一隅では、わが群馬県立近代美術館の奇怪な作品《世界の先のどこへでも》(1915~19)が異彩を放つ。優品揃いのシャガール展といった趣だが、よくよく気をつけねばならない。ここでの主役はシャガール本人ではなく、彼が幸福を謳歌した故郷の街、ヴィテプスクであることを忘れてはならないのだ。
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そしていよいよマレーヴィチ御大の登場だ。1919年秋、彼がヴィテプスクに到着すると、この街の美術を取り巻く状況は一変する。絶大なカリスマ性に溢れたマレーヴィチの存在は、善良で融和的だが方法論を欠くシャガールのそれを圧倒し、スプレマチズムこそ美術が進むべき唯一の道であるとする信念は瞬く間に周囲の人々の間に浸透し、美術学校全体を席捲した。
この重大な転換点を、展覧会はうまく可視化し損なっているのが、今回の展示での見過ごせない問題点だろう。
当時のマレーヴィチはスプレマチズムの最終段階(《白の上の白》による消滅)をとうに終え、実作者としては何も描くことなく、もっぱら理論的著作と後進の指導に没頭していたため、ヴィテプスクにおける圧倒的なプレゼンスを、具体的に作品として示せないところに、このセクションを組み立てるうえで難しさがある。それはよく理解できる。
だが当時のヴィテプスクには、数点の重要なマレーヴィチ作品が招来されており、実際に展覧にも供されていた(《牛とヴァイオリン》《イワン・クリューンの肖像》《スプレマチズム(運動する絵画的マッス)》など)。
にもかかわらず、本展はそれらの作品にはなぜか一顧だにせず、ヴィテプスクとは無関係な三点のスプレマチズム絵画を、なんの文脈もなしに漫然と並べている。この詰めの甘さは一体どうしたことか。
展示物の配置にも問題がある。順路に沿って展覧会を観ていると、マレーヴィチ作品に辿り着く前に、リシツキーのスプレマチズム期の作品群を先に観てしまうことになり、ヴィテプスクの美術界を襲った「マレーヴィチ・ショック」を追体験できないのだ。これは致命的な弱点ではあるまいか?
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リシツキーのセクションは申し分ない出品内容だ。彼がスプレマチズムに帰依して間もない時期の秀逸なタブローの数々、ヴィテプスク時代に制作し、印刷と出版をベルリンに委ねた実験的な絵本『二つの正方形の物語』(1922)の稀少なオリジナル版、未来派オペラ《太陽の征服》の驚くべき「エレクトロ・メカニック」版(1923)、さらには彼が1920年に構想した大胆なプロジェクト《レーニンの演説台》の復元的模型(ポンピドゥー・センターで1979年に催された伝説的な「パリ=モスクワ」展に際し制作されたものだ)、さらには1923年の《プロウン・ルーム》の復元(エイントホーフェン、ファン・アッベ美術館)まで運ばれてここにある。
このセクションもまた、秀逸なリシツキー展に匹敵する優れた内容だ。時期的に彼のヴィテプスク滞在からはみ出す作品も含まれるが、それらの構想がこの時期に胚胎したと考えれば、こうした展示も故なしとしない。
マレーヴィチの到来はヴィテプスク人民美術学校の教育カリキュラムを根底から覆した。スプレマチズムこそが唯一無二の教義と看做され、教授と学生は美術集団「ウノヴィス(Unovis)」を結成して共同制作に勤しむ。
「ウノヴィス」の名のもとでマニフェストや理論書が執筆・編纂され、祝祭の飾り付けや演説台、劇場内部の装飾、オペラの衣裳デザインなどが陸続と制作される。それらのすべてが幾何学的なスプレマチズム的な形象と色彩によってなされた。驚嘆すべき過激なユートピアの出現である。
ただし、実際に並ぶのは、いずれも小さな紙切れに描かれた「夢の欠片」にすぎず、この展示室で彼らと夢を共有できるか否かは、こちら側の想像力の多寡に委ねられる。その意味で、これは鑑賞者の力量が試される展示といえるかもしれない。さすがに多くの人々は曖昧な表情で通り過ぎていく。
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このあたりで一時間半が経過。そろそろ小生の鑑賞能力は限界に近く、緊張が維持できなくなる。続くマレーヴィチの空想的な建築模型《アルヒテクトン》展示あたりから以降は、ざっと足早に通り過ぎる。パリ滞在中、ぜひもう一度この展覧会に来よう。
最後のコーナーは、校長時代のシャガールが設立に奔走したという「ヴィテプスク現代美術館」にかつて収集・展示されていたという曰くつきの絵画群がずらり。オリガ・ローザノワがあればカンディンスキーもある。ラリオーノフとゴンチャローワはいずれも力強い逸品だ。シャガールの公平無私な尽力ぶりが偲ばれる。今は各地に散らばった作品を、よくぞ一堂に集めたものだ。もっともこれはポンピドゥー・センターの手柄というより、1998年にサンクト・ペテルブルグの国立ロシア美術館で催された「美術館のなかの美術館 Музей в музее」展の功績なのであるが。
二時間ほどかけて会場を一巡したが、充分に見尽くしたという気がしない。展示の趣旨が今ひとつ詳らかでない箇所が随所にあるのは、もちろん当方の理解力不足の故もあろうが、展覧会としての内容吟味の不徹底や説明不足もあるような気がする。都市を主役にした展覧会は難しい。
とにかく疲労困憊した。午前中にクプカの大回顧展、昼からはヴィテプスク展。これでもう完全に満腹状態だ。なけなしの感受性を使いつくした感じ。それでもこのあと、ポンピドゥーの常設展示を観ることになるのだが。