【承前/7月13日(金)午後は念願の「ヴィテプスク展」(前篇)】
今回のパリ滞在の最大のミッションは、ポンピドゥー・センターで開催中の展覧会「シャガール、リシツキー、マレーヴィチ.../ヴィテプスクのロシア・アヴァンギャルド 1918–1922 Chagall, Lissitzky, Malévitch... L'avant-garde russe à Vitebsk (1918–1922)」を観ることにある。
シャガール、リシツキー、マレーヴィチ。それぞれ単独に回顧展が催されてもおかしくないロシア・アヴァンギャルド美術界の傑物中の傑物だが、今回の展覧会は彼ら三人がともに数年を過ごしたヴィテプスク時代に焦点を合わせ、このベラルーシの地方都市に特化した企てだという。
そこにこそ従来にない本展の独自性と妙味があり、「これは千載一遇の機会なので、見逃したら後々きっと後悔する」と、心のなかで呟く声がした。だからはるばる来た。会期は三日後の7月16日まで。急がねばならない。
❖
ヴィテプスクはいうまでもなくマルク・シャガールの郷里であり、ロシア革命翌年の1918年、この街に初の国立美術学校(ヴィテプスク人民美術学校)ができて間もなく、請われて校長に就任したのは、ほかならぬ彼だった。シャガールがパリで得た赫々たる名声が評価されたのだ。
三十歳という若さで任に就いたシャガールは、自分のスタイルだけを学生に押し付けるのをよしとせず、当時ロシアで隆盛を誇っていたアヴァンギャルド美術をできるだけ幅広く学ばせるべく、モスクワやペトログラードから、互いに作風の異なるさまざまな前衛美術家を教授としてヴィテプスクに招聘した。ヴェラ・エルモラーエワ、エリ・リシツキー、そしてカジミール・マレーヴィチ。いずれも当代屈指の実力を備えた個性派である。
ところがシャガールにとって、それが運の尽きだった。1919年マレーヴィチがヴィテプスクに到着するや、彼が主唱する抽象絵画理論「スプレマチズム」は瞬く間に校内に蔓延し、学生たちはおろか、同僚のエルモラーエワやリシツキーまでがその信奉者となった。挙句の果てにシャガールは孤立し、四面楚歌の身となって、失意のうちにモスクワへの転職を余儀なくされる。
それからの数年間、ヴィテプスク人民美術学校では、マレーヴィチの専制的な指導のもと、自ら開発したスプレマチズム理論によるカリキュラムに基づく史上初の抽象美術の教育が実践された。いうまでもなく、これは20世紀美術史に特筆すべき事件である。
❖
かつて川村記念美術館に奉職していた頃、小生はこの時期のヴィテプスクに並々ならぬ関心を抱いていた。
その理由ははっきりしている。同館が所蔵するマレーヴィチの油彩画《スプレマチズム》(1917年頃 →これ)がこの時期、ほかでもないヴィテプスクの教育現場に飾られていたという驚くべき事実があるからだ。一枚の古写真(→これ)がその揺るがぬ証拠である。
1990年代の中頃だった。早世した英国の美術史家カミラ・グレイ(Camilla Gray)の先駆的名著 "The Great Experiment: Russian Art 1863–1922" のペーパーバック新版(1986)の頁を繰っていて、小生はそこに掲載された小さな図版にふと目を留め、雷に打たれたような衝撃を受けた。写真の左上隅に辛うじて下半分が写っている絵が、どうやらわが川村作品に思えたからだ。
そのすぐ隣に飾られている絵がその傍証となる。やはり下半分しか写っていないが、図柄からこれは明らかに、現在サンクト・ペテルブルグの国立ロシア美術館が所蔵するマレーヴィチの油彩画《スプレマチズム(運動する絵画的マッス)》(1915 →これ)と同定される。二枚の絵の実寸の比較からも、隣に写るのが川村の所蔵作品であることはまず間違いなさそうだ。
1960年代からイタリアの個人コレクションに秘蔵された(カルロ・ポンティ&ソフィア・ローレン夫妻の旧蔵である!)本作品は、それ以前の来歴が皆目わからず、70年代に日本にもたらされたため、永らく欧米のマレーヴィチ専門家の視野から遠のき、研究の埒外に置かれてきた。その真筆性にも確証がない。小生のささやかな「発見」は、この絵の素性や伝来を跡づけるうえで、なんらかの意味をもつに違いない。
1921年のヴィテプスクで、マレーヴィチ教授による尖鋭な抽象美術カリキュラムの実践を、この絵は教室の壁の高みから睥睨するように見降ろしていた――そう想像するだけで、なんだか胸が熱くなってくるではないか。
❖
グラン・パレの「クプカ展」会場を後にして、シャンゼリゼ・クレマンソー駅からメトロ①番線で東へ移動する車中、小生の胸に去来していたのは、ざっと上に記したような感慨だった。
十五年前に美術館を辞してからも、ヴィテプスクの教室の一郭に高く掲げられていた絵のことは、ずっと念頭を去らなかった。このたびのポンピドゥー・センターでの「ヴィテプスク展」は、焼け棒杭に火がつくような塩梅で、小生のマレーヴィチ熱を久しぶりに再燃させたのである。(つづく)