祖国に帰還したプロコフィエフがヨシフ・スターリンの還暦の祝いに「もてる才能を惜しげもなく注ぎ込んで」作曲した祝賀カンタータ《乾杯 Здравица》(1939)。今やロシアでも他の国でも、おおっぴらに演奏される機会の絶えてない音楽である。なにしろ歌詞がスターリンの「偉業」を褒めそやす阿諛追従の言葉に満ち満ちているのだから。
飛んで火に入る夏の虫とは、1936年に帰国したプロコフィエフのために誂えた言葉だろう。スターリンの大肅清の真只中にあって「自分だけは特別待遇、自分だけは大丈夫」と多寡を括っていた彼も、翌37年のプーシキン百年祭のため作曲した三つの大作(《エヴゲニー・オネーギン》と《スペードの女王》と《ボリス・ゴドゥノフ》!)が何れも当局から忌避され、お蔵入りになった時点で、さすがに雲行きの怪しさを感じ始めたに違いない。
マルクス、レーニン、スターリンの文章を歌詞に据え、満を持して臨んだ超大作《革命二十周年記念》カンタータまでが註文主から却下されるに及んで、プロコフィエフの苦境は誰の目にも明らかになった。
彼の身近な周辺でも逮捕者が相次いでいた。彼に子供のためのナレーション付き音楽《ペーチャと狼》を委嘱したモスクワ中央児童劇場のナターリヤ・サーツも、新作バレエ《ロミオとジュリエット》の上演を準備していたはずのボリショイ劇場の責任者も、反国家の罪状で容赦なく拘束された。
そして1939年、演出家メイエルホリドの突然の逮捕は、プロコフィエフの身にも累が及びかねない一大事だった。上演準備中の新作歌劇《セミョーン・コトコ》は、ほかならぬそのメイエルホリドとの協働作品だったからだ。
そこへ放送局から舞い込んだ「スターリン六十歳の誕生日を祝う」楽曲の依頼を、プロコフィエフが渡りに舟とばかりに引き受けたのは、窮地に立たされた作曲家にとって不可避の行動だったに違いない。
ソ連邦の諸民族がこぞってスターリンに挨拶するという追従的で歯の浮くような詩句に、精一杯プロコフィエフは可憐な旋律と精妙な和声を纏わせたのは、さすがと云うべきだろうか。だがしかし、これこそ乾坤一擲、命がけの賭でもあつたのである。
この《乾杯》(英訳ではしばしば「スターリン万歳 Hail to Stalin」と称される)は、禍々しい歌詞が災いして今ではほぼ演奏の機会がないが、プロコフィエフの円熟期ならではの魅力をふんだんに湛えた佳作である。
スヴャストラフ・リヒテルなぞはこの曲を「天才の所産」とすら絶賛して憚らない。「これこそ記念碑、ただしスターリンのでなく、プロコフィエフの栄光の記念碑、だがね」。
❖
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーはすべての事情をわきまえたうえで、この「封印された作品」を淡々と、だが慈しむように指揮している。2002年6月、モスクワ音楽院大ホールでの非公開セッション(→これ)。
その表情は穏やかな平静と飄逸の下に、なんともいえない諦念と憐憫の情を色濃く滲ませている。
「ああ、プロコフィエフ! 貴方はその輝かしい才能を、このような愚劣で欺瞞的な歌詞に附曲することに費やさざるを得なかったのだ。なんという時代だろう」と、その卓越した指揮は問わず語りに重たい真実を告げている。