昨日ほどではないが、まずまずの五月晴れなので、家人の発案で「いちはらアート×ミックス2017」を観に出かけた。
朝八時すぎに出発、JR五井駅で降りて小湊鉄道に乗り換えようとしてギョッとする。家族連れのピクニックなのだろう、改札には長蛇の列。小湊鉄道はSUICAカードが使えないため、乗車券を買わねばならないのだ。やっとの思いで通り抜け、ホームで「アート×ミックス」のパスポートを購入し、足早に乗車したが、始発駅というのに、すでにかなり混みあっている。いつもは二両のところ三両編成なのだが、それでも足りず急遽もう一両を連結して発車。
車窓からの眺めはいかにも鄙びた山里の風景。濃淡さまざまな新緑が目に美しい。次第に人家が稀になり、いよいよ山間の僻村という感じになって、一時間近くかかって目指す飯給(いたぶ)駅に到着。ここらは房総半島のちょうど中心あたりに位置する人跡も稀な地だ。
鄙びた無人駅のホームに降りたったのは小生と家人の二人きり。心細い気持ちで見知らぬ田舎道をとぼとぼニ十分ほど歩くと、目的地の旧里見小学校の建物がようやく見えてきた(
→校門からの眺め)。鉄筋コンクリート製の立派な校舎だが、過疎化のため四年前に廃校となり、今は地域の文化交流の場として再生されている。校舎の前には美しい花壇がしつらえられ、寂れた感じは全くしない。
目指す部屋は階段を二階へ上がって真正面の教室。暗く遮光した部屋にチシコフの月が煌々と輝く。ここに並ぶのは前回(2014年)にも展示された《デ・キリコの月》(→これ)、《ロルカの月》(→これ)、そして最新作《種田山頭火の月》(→左の作品)の三点。
傍らの黒板にはそれぞれの作品のための準備デッサンが貼られ、制作意図がチョークで板書されているが、それらの援けを借りなくとも存分に味わえ、無条件で愉しめる作品ばかりだ。暗闇を明るく照らす月、という普遍的な主題のせいもあるが、チシコフの月は見た目こそシンプルだが、どれも複雑な味わいと静謐な詩情に満ちていて、観ているだけでなんだか浄化された心持ちになる。
家族連れを含め、ここを訪れた来観者は一様にほっと安らいだ表情をみせていた。ひとりの老婦人が《種田山頭火の月》をしげしげと見つめ、「これは本当に山頭火そっくりだわ」と呟いたのがひどく印象に残った。
このほか教室を出た正面の階段を上がった踊り場の暗がりに、古木の根と切り株を用いた《芭蕉の月》(→これ)、校舎の屋上には新作《ウィリアム・ブレイクの月》(→これ)が高々と設置されている。
前者は松尾芭蕉の句「木を切りて 本口見るや 今日の月」に、後者は子供が月を欲しがって “I want, I want” とねだるというブレイク詩集『楽園の門』の挿絵(→これ)に、それぞれ由来する。いわば本歌取りのインスタレーションなのだが、それを知らなくとも一向に差し支えない。自ら詩人でもあるチシコフが醸し出す「無垢の歌」を感じ取ることができれば、もうそれで充分なのだ。
他の教室の展示もひととおり観て、感想はいろいろあるがここには記さない。とにかく疲れた。ふと気がつくとそろそろ昼飯時だ。
嬉しいことに、校舎の一室には小ぢんまりとした食堂が設えられていた。その名も「里山食堂」。手作りの「里山カレー」「里山オムカレー」「名水コーヒー」、どれも美味しかった。いつの間にか註文の行列ができ、ほどなく席は埋まってしまう。忙しくたち働くヴォランティアのおばさんたちに頭が下がった。
まだ余力がありそうだとの家人の言に促され、校門の脇から一時半過ぎに出る無料周遊バスに乗った。せっかくパスポートを購入したのだから、もう少し観ておきたい。なにしろこの美術展は互いに遠く離れたいくつもの拠点で同時開催されている。市原の市域は驚くほど広いのだ。
ほぼ満員のバスは曲がりくねった山あいの道を慎重に進んで行く。人家はもうほとんど見えない。トンネルをいくつか抜け、かなりの急坂を登ったり下りたり。十五分ほどで「月出工舎(旧月出小学校)」の臨時停留所に着き、およそ半分の乗客はここで降りた。こんな山奥に小学校があるのかと驚くばかりの僻地である。ちょっと覗いてみたいと心が動くが、ぐっとこらえてバスに留まった。
そこから更に二十分近く走ったろうか、平地に出て視界が開けたと思ったら、前方に湖面が見えた。目的地はもうすぐだ。
(まだ書きかけ)