今日はエヴゲニー・ムラヴィンスキーの百十五回目の誕生日と知り、二年前の旧稿を引っ張り出した。出典は平林直哉氏の自主レーベル「Grand Slam」から出たCD「ムラヴィンスキー/バルトーク、ドビュッシー、オネゲル」に寄せたライナーノーツ。一部分の抜粋である。 →CDについての情報
指揮者エヴゲニー・ムラヴィンスキーが1960年代初頭「雪解け」の流れに促されて、諸外国の20世紀作品をレパートリーに加えたのは事実だろうが、その根底には青年期の忘れがたい記憶があったと想像される。
彼がまだレニングラード音楽院に在籍していた1920年代、革命期のロシア・アヴァンギャルド人脈がなおも勢力を保っていて、この街の芸術界は目覚ましい活況を呈していた。
とりわけ音楽の分野では海外との交流も盛んで、ベルクの歌劇《ヴォツェック》が作曲家立ち会いのもと上演されたほか、プロコフィエフのアメリカ時代の《三つのオレンジへの恋》、クシェネクのジャズ・オペラ《ジョニーは弾き始める》などの話題作が舞台にかかった。
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団にはオットー・クレンペラー、ピエール・モントゥー、ブルーノ・ワルター、エーリヒ・クライバー、エルネスト・アンセルメらがこぞって客演し、ヨーロッパの新興音楽のなまなましい息吹をじかに伝えた。
外国人作曲家の来訪も後を絶たず、上述のベルクに続き、ミヨー、カゼッラ、山田耕筰らが相次いでレニングラードで自作を指揮している。ヒンデミットは訪ソこそしなかったものの、彼の「協奏音楽」はレニングラード・フィルの演目として何度も登場した。
1928年3月にはアルテュール・オネゲルが夫人同伴で訪ソしてレニングラード・フィルと三夜の演奏会をもち、《ニガモンの歌》《夏の牧歌》《勝利のオラース》《パシフィック231》、夫人の独奏によるピアノ小協奏曲などを自ら指揮した。この時点で《パシフィック231》はすでにモントゥーが紹介済みで、オーケストラのレパートリーに入っていたと、帰国後のインタヴューでオネゲルは嬉しい驚きを口にしている。[中略]
こうした新音楽との蜜月時代は1930年代中頃まで続いたが、1937~38年のスターリン大粛清により唐突に断ち切られる。
ソ連滞在中の外国人は強制退去させられ、国是とされた「社会主義リアリズム」にそぐわない芸術活動は容赦なく弾劾された。音楽・演劇界でも逮捕者が相次ぎ、国外との文通すらスパイ活動と看做される恐怖の時代が到来した。
私たちが知る「世界から孤立したソ連の保守的な文化」は、このとき方向づけられた。ムラヴィンスキーがレニングラード・フィルの常任指揮者に就任したのは1938年――まさにその渦中でのことだ。[中略]
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第二次大戦後間もない1947年5月、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチとともに「プラハの春」音楽祭に招かれ、チェコ・フィルを振ってショスタコーヴィチの交響曲第八番を同地初演した(5月20、21日)。
このプラハ訪問時、両者はたまたまシャルル・ミュンシュがオネゲルの交響曲第三番《典礼風》を指揮する演奏会に遭遇した。ミュンシュがチューリヒでこの交響曲を世界初演したわずか九か月後のことだ。
オネゲルの戦時体験を色濃く滲ませたこの交響曲が二人のロシア人音楽家にいかなる印象をもたらしたかは想像の域を出ないが、ショスタコーヴィチは直ちにその総譜を手に入れ、自ら二台ピアノ用に編曲までした(レニングラード音楽院での教材用だという)。
ムラヴィンスキーとて、青春期の音楽体験に直結する作曲家の最新作とあって、大いに心を揺さぶられたのではなかろうか。自らからこの曲を指揮する可能性すら思い描いたかもしれない。
ところが翌48年2月、悪夢が再来した。「ジダーノフ批判」により、ショスタコーヴィチは他の有力作曲家とともに、社会主義リアリズムから逸脱した近作の「形式主義的」傾向を厳しく指弾され、レニングラード音楽院を解雇されてしまう。
「ジダーノフ批判」で非難の対象となったショスタコーヴィチの交響曲第八・第九番も、プロコフィエフの交響曲第六番も、ほかならぬムラヴィンスキーが世界初演を指揮した楽曲だったから、彼もまた批判の矢面に立たされる危険が身辺に及んでいた。渦中にあった当事者だったのだから。
プラハで耳にした《典礼風》交響曲の記憶は封印され、そのまま胸中深くしまい込まれるほかなかった。
ムラヴィンスキーがこの交響曲を初めて振る機会を得るのはずっと後年、雪解け期の1961年11月になってからである。ソ連初演だった。