もう半世紀近く前になるので記憶が朧ろげだが、1970年頃に銀座の小さな画廊でルドンの石版画展を観た。たしか「ギャルリー・ムカイ」だったか、狭い一室に版画集《聖アントニウスの誘惑》が全点ところ狭しと並べられていて、田舎の高校生はただもう茫然と立ちすくんでいた。ルドンといえば誰もが讃えるだろう千変万化する色彩を欠いたモノクロームの寡黙な世界に、これほど人を呪縛する力があることに驚愕し、しばらく部屋を立ち去ることができなかった。あんなにもルドンに魅了されたことは後にも先にもなかったと思う。
そんな太古の記憶を胸に秘めながら、招待券を貰ったという家人に促されるまま昨日(5月19日)三菱一号館美術館で開催中の「ルドン――秘密の花園」展へ赴く。会期終了間際とて、十時の開館少し前には入場を待つ数十人の行列ができていたが、館内はそれほど混雑することなく、家人も小生も思い思いのペースで愉しむことができた。
本展の眼目はブルゴーニュにあったドムシー男爵(ルドンのパトロンだった謎めいた人物)邸の食堂を飾っていたという壁画(オルセー美術館)全十五枚の展示にあり、同じ食堂にあった当館所蔵の巨大パステル画《大きな花束》とを「合わせて展示します」とチラシにも謳われていたが、なんのことはない、両者は別々の部屋に展示されていて拍子抜け。肝心の壁画も展示スペースの制約からか、二室に分けて並べられる始末だ。これにはがっかり、せっかく大作群を招来したのに看板倒れの展示である。
本展はいささか通好み、というかルドン上級者向けの趣があり、編年に添った展覧会構成ではなく、「樹木」「植物学」「蝶」「花瓶の花」などモティーフごとに分類された展示なので、国内作品はもとよりオルセーやMoMAの出品作を含む九十点を擁する陣容のわりに充実感は今一つ。見惚れるほどの逸品もなく、版画集のたぐいもバラされてしまい見応えを欠く。
そんな蟠りを抱きながら廊下を歩いていたら、女子学生たちに熱っぽく解説する声がする。聴き覚えがあるぞと思ったら、やはりそうだ、本展を担当された安井裕雄学芸員だった。
昔々モネ展でご一緒した旧知の間柄なのでご挨拶がてら「壁画と《大きな花束》を一緒に並べないのは何故?」と尋ねると、「当館の《グラン・ブーケ》は定位置の展示ケースから出すと硝子カヴァーのない剥き出し状態なので、壁画群と一緒には並べられなかった。壁画を二室に分けたのも、当館には広い展示空間がないための方策。ただし、2011年にパリのグラン・パレで全点を一室に並べた展示は散漫で成功せず、今回のほうが遥かに見応えがあると思う」とのこと。ふうん、そんなものかと半ば納得。
安井さんがカタログを進呈しようというので、お心遣いに難有く甘えた。
このあと国際ビル地下の国際(くにぎわ)食堂街にて軽く握り寿司で昼食。ここで家人と別れて地下鉄で神谷町へ。珈琲屋で少し時間を潰す。車中でも店内でも、頂戴したルドン展カタログに興味深く読み耽る。
ドムシー男爵邸の食堂壁画に関する詳しい解説もさることながら、安井さんが執筆された論考「浮遊する眼球、胡蝶の夢、再生の樹木――明治、大正時代の日本におけるルドン受容」がことのほか示唆的な内容だ。従来の研究では竹内栖鳳や土田麦僊ら京都の日本画家のルドン愛好ばかり強調されてきたが、この安井論考では藤島武二や黒田重太郎ら洋画家のルドン摂取、恩地孝四郎の眼のモティーフ偏愛へのルドンの影響が考察される。頗る面白い。芥川龍之介や中條百合子がルドンに言及していたなんて知らなかったなあ。
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そろそろ時間だと珈琲店の席を立つ。二時からサントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会がある。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。通算七百回目の記念すべき公演だが、週末とてマチネ興行だ。プロコフィエフのチェロと管弦楽のための《交響的協奏曲 Симфония-концерт》(むしろ《交響曲=協奏曲》と称すべきか)とストラヴィンスキーの《ペルセフォーヌ》(バレエ音楽だが朗読、独唱、合唱が入る)を組み合わせた興味深いプログラム。後者はなんとこれが日本初演だという。
2003年のこと、旅先のロンドンでたまたま《ぺルセフォーヌ》の実演に遭遇する機会があった。英都の夏の風物詩「プロムナード・コンサート(Proms)」の一齣、BBC交響楽団の演奏、指揮はアンドルー・デイヴィス。プーランクのモノ・オペラ《人間の声》(出演/フェリシティ・ロット)との珍しいダブル・ビルである(2003年8月10日/ロイヤル・アルバート・ホール)。
奇遇にもこの晩《ペルセフォーヌ》でエウモルポス役を歌ったのは、今回と同じテノール歌手ポール・グローヴズだった。彼の当たり役なのだろう。とはいえ、十五年前に耳にした印象はひどく希薄。よほどピンとこない音楽だったのだろう。幸いにもこのときの演奏を記録したライヴCDが手許にあるので、それで少しばかり予習してきた。
プロコフィエフの《交響的協奏曲》(1952初演)とストラヴィンスキーの《ペルセフォーヌ》(1934初演)というプログラムは、一見するとやや奇妙な、収まりの悪い取り合わせに思える。しかしながら、プロコフィエフ作品はもともとピヤチゴルスキーの註文で書かれたチェロ協奏曲(1938初演/作曲者は失敗作と考えた)をのちに大幅に改作したものであり、パリ在住の二人のロシア人はこれら二作を1930年代の同時期に並行して書き進めていた――そう考えると、なるほどと納得がいく曲目編成なのだ。
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前半のプロコフィエフの独奏者は辻本玲という若手。日本フィル団員だそうだが、見事な演奏ぶりに舌を巻く。この至難な曲が初演者ロストロポーヴィチの独占物だった往時では考えられないが、些かの躊躇も危なげもなく堂々と弾いてのける。この曲を隅々まで知り尽くしているのだろう、ラザレフの指揮もオーケストラをきびきびと的確に、正しい場所へと導く。
双方ともに申し分のない協働作業であるが、それでもこの曲の欠点は隠れもない。旧作のチェロ協奏曲を雛型に、いろいろ新機軸を投入・拡大して形を整えてあるものの、用いられた主題がどれも平凡で感興を殺ぐ。終楽章などはカバレフスキーかハチャトゥリアンに近い卑俗な音楽になってしまい、プロコフィエフ贔屓の小生ですら、聴いていてうんざりする。創作力の枯渇は隠れようもない。
休憩を挟んだ後半はストラヴィンスキーの《ペルセフォーヌ》。大人数の混声合唱(晋友会)、児童コーラス(東京少年少女合唱隊)、テノール独唱(ポール・グレイヴズ)、ペルセフォーヌ役のナレーター(ドルニオク綾乃)、それにフル・オーケストラという大編成。記念公演にふさわしい演目であることが視覚的にも納得できる。合唱陣は舞台後方と左方の客席にずらり居並ぶ。
主役だけが歌わずに朗読するというスタイルは、註文主で初演者のイダ・ルビンシュテインの個人的事情(ダンスも歌も不得手なのでマイムとナレーションに特化)に由来する制約であり、同じく彼女が委嘱したドビュッシーの《聖セバスティアヌスの殉教》(台本/ダンヌンツィオ)、オネゲルの《アンフィオン》(台本/ヴァレリー)と《火刑台のジャンヌ・ダルク》(台本/クローデル)もみな同類である。ギリシア神話に拠る本作の台本作者はアンドレ・ジッドだが、フランス語の韻律を無視して付曲したストラヴィンスキーにジッドはひどく立腹して袂を分ったという顛末はよく知られている。
全体は「ペルセフォーヌの誘拐」「冥界のペルセフォーヌ」「ペルセフォーヌの再生」の三部に分たれ、ペルセフォーヌが随所で語り、合唱と独唱がギリシア劇のコロスよろしく物語を進行させる。聴覚的にはバレエ音楽というよりも典礼劇、しめやかな宗教秘儀の音楽といった趣である。
始まってほどなく悟ったのだが、ストラヴィンスキーの書法は精緻にして至純、典雅にして厳粛、純白の音楽を聴く思いがした。この磨き上げられた純度の高さは彼の新古典主義時代の頂点に位置するものではないか?
聴こえてくるのは、どこの国にも属さない音楽だ。歌詞と台詞こそフランスだが、作曲家は歌詞のアクセントを無視した特異なスタイルで作曲しており(だからジッドを怒らせた)、意図的に仏語的には響かせない。にもかかわらず、不思議に心の琴線に触れてくる。15年前にロンドンで聴いたときは「ピンとこない音楽」だったのに、今回の日本初演で《ぺルセフォーヌ》の真価をひしひしと感じた。細心の注意を払って拵え上げた、フランスでもロシアでもない、真にコズモポリタンな普遍性に心を揺さぶられたのだ。