必ずしも皐月晴れとは参らぬが、このところ外出が続いている。うかうかしていると老人の記憶は薄らいで雲散霧消する。忘れないうちにあらましを記しておこう。
5月9日(水)
小雨模様だが早目に家を出て電車を乗り継いで桜木町へ。みなとみらいの横浜美術館で「
ヌード 英国テート・コレクション」をざっと鑑賞。テイト・ブリテンとテイト・モダンの蒐集品で近現代の裸体表現の変遷を辿る企画である。レイトン卿やアルマ=タデマによる古典的な構想画から、フランシス・ベイコン、ルシアン・フロイド、ルイーズ・ブルジョワの暴露的裸体を経て、サラ・ルーカス、トレイシー・エミンらの今日的な身体表象まで。テイトの学芸員がセレクトした、いかにも教科書的な分類に鼻白むが、さすが彼の地のコレクションは充実している。滅多に観られぬグウェン・ジョンの小品、デイヴィッド・ボンバーグの未来派風の半抽象、アンリ・ゴーディエ=ブゼスカの彫刻二点に目が釘付けに。ボナールの沐浴図二点とデ・クーニングの質の高さも衝撃的。一時間ほどのお勉強のあと、地下鉄で元町・中華街駅へ。約束の午後一時少し前に着くと改札で旧友Boeが待っていた。ウィーンから帰国中の彼はこの界隈のホテルに逗留している由。横濱媽祖廟にふたりして参拝したあと迷路のような中華街をあちこち彷徨った末、裏道の香港路で見つけた「
日昇四川菜館」へ。名にし負う四川料理の小さな店だが、Boeが註文した麻婆豆腐も小生が選んだ黒酢酢豚も、濃いだけでなく複雑な味で実に旨い。それぞれ定食仕立てなので満腹。雨もすっかり上がったので、横浜港を横目に見ながら散策。馬車道の脇道で喉を潤そうとふと入った「
ピアノBar本牧」は珈琲が七百五十円もして怖気づいたが、これが深煎りでめっぽう美味しい。しかもマスターはジャズ・ピアニスト(松本譲司さんという)でカウンターの常連客も楽器を巧みに奏する。ほどなくマスターの歌とピアノ、客人のトランペットのオブリガート付きで《枯葉》が披露された。夜は本格的な実演バーになるらしい。われらには敷居が高いが素敵な店だった。そのあと関内駅近くのディスクユニオンで先日買いそびれた中古CDを一枚入手(フランク・ブリッジ小品集)。夕刻だがまだ陽が高いので根岸線のガードを潜って、そのまま伊勢佐木町方面へ。延々と鰻の寝床のように続く古い商店街には古本屋が数軒あり、「
馬燈書房」で和田誠の洒脱なカヴァーに惹かれてジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』(丸谷才一訳、中公文庫)を買う。ずいぶん歩いたので喉も乾き、腹も減ったとて手頃な居酒屋を探すが見あたらず、無策ながら「
磯丸水産」伊勢佐木町店に腰を落ち着けた。今日は二人きりなので、話題はいつになくしんみり、互いの来し方行く末をあれこれと語り合ううちに夜は更け、店を出たのは九時半過ぎ。再会を約して関内駅でBoeと別れた。
5月10日(木)
小雨模様の冴えない曇天だが、意を決して家人に同道して上野へ。和食レストランで腹拵えしたあと東京国立博物館へ。表慶館で開催中の展覧会「
アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝」がお目当てだが、館の前脇に隊商のテントのような一郭があり、アラビア装束の方々がそこで珈琲と茶菓を給している。難有く頂戴すると、薄い色の液体に香辛料を溶かしこんだ玄妙な味がする。これがアラビア珈琲というものか。そのあと展覧会をじっくり鑑賞。まるで予備知識がなく、われらには猫に小判なのだが、おそらくサウジアラビアの国宝級の文物がずらり。百万年以上も前の石器に始まり、諸古代文明が交錯する悠久の歴史に触れて、気が遠くなるような思いだ。一時間以上かけて堪能して外に出ると、いつの間にか天候が回復し、抜けるような青空なのにびっくり。そのあと本館でざっと観た日本美術の常設がどれもこれもスケールに乏しい片々たる遺物に思えたほど。本館裏の庭園をゆっくり散策して前庭へ戻ると、表慶館前にロープが張られ物々しい警備体制。ほどなく盛装したサウジアラビアの王子殿下(かの国の文化大臣という)御一行が到着。王子様といっても若君ではなく、六十代の恰幅いい殿様だった。それにしても今日は歩いたことよ。帰宅時に万歩計は優に一万三千歩を記録した。
5月12日(土)
自宅でサンドウィッチ昼食を頬張るとすぐ外出。午後二時前には佐倉のDIC川村記念美術館に着いた。一か月前のオープニング招待日に続いて、展覧会「
ゆらぎ ブリジット・ライリーの絵画」を再見。じっくり時間をかけて一枚一枚の絵を凝視したのは今日が初めてだ。感想を言葉にするのがいかにも難しい作家であり作品であるが、どの絵をとっても構造は一見シンプルで幾何学的に見えるのに、時間をかけて観察するうちに思いもよらぬ複雑さに眩惑され、呪縛される。理知的なようにみえて実はきわめて感覚的な世界が内包されていることに気づく。どの一点をとってもそうなのだが、今回のように回顧展として時代を追って眺めると、彼女の煌めくような感受性、それを画布に写し取る精緻な手技に圧倒される思いだ。エントランスホールで担当学芸員の前田女史から届いたばかりのカタログを手渡される。感慨なきにしもあらず。ただし、すぐさま誤植をひとつ発見して落ち込む。まだ時間がたっぷりあるので、庭を散策したり、ベンチで文庫本を読んだり、喫煙所で一服したり。よく晴れた緑濃やかな田舎の眺めを満喫。今日は展覧会関連イヴェントとして、閉館後の展示室で
首藤康之&中村恩恵のダンス・パフォーマンスがある。この催しのチケットは限定七十席。発売と同時に売り切れていたのだが、たまたまキャンセルがあったと企画担当の海谷さんから知らされ、ご厚意に甘える形で申し込んだのだ。チケットに指示されたとおり、閉館少し前に附属レストラン「べルヴェデーレ」でオードヴルと白ワインの軽食をとる。五時四十五分に声がかかり、一同はブリジット・ライリーの展示室へと招じ入れられる。六時開演。首藤康之の緩慢でスタイリッシュなソロに先導されながら、客たちは展示室から展示室へとゆるゆる移動する。三つ目の場所には中村恩恵が待ち受けていて、二人は距離を隔てて互いに鏡像のように呼応したポーズをとる。そこから更に進むと、いきなり広い空間に出て、ライリーの大きな最新作を背に、七十脚の椅子がコの字形に並べられている。観客は思い思いの席に着座。予め録音されたピアノ音楽が流れ出す(バルトークほか)。そのあと私たちが至近で目の当たりにした光景をどう言葉にすればいいだろうか。それは目も眩むような、まさしく筆舌に尽くしがたい眺めだったのである。ライリー作品の正面に向かい合わせに置かれた一対の椅子に首藤と中村が坐し、まるで磁石の極が切り替わるごとく、互いに吸引しあい、反撥しあう二人。立ち上がった両人は相愛のカップルのように抱き合って踊るが長くは続かない。一挙手一投足すべての動作は剃刀さながら。うっかり触ると切れそうだ。なんと鋭く研ぎ澄まされたパフォーマンスだろうか。首藤と中村とはまさに阿吽の呼吸、技量もまた同等の高みにある。この二人ならでは達成しえない、火花を散らした共演に総毛立つ思いがする。凄いものを観てしまった。パフォーマンスはきっかり三十分。短すぎも長すぎもしない。まさしくそれは特別な時間だった。不思議なことに、二人の踊りはライリー作品と見事に調和し、厳しく律せられた直線も、流麗にたゆたう曲線も、あたかも背後の絵から流れ出たかのよう。したたか打ちのめされ、茫然となって展示室を辞去し、酩酊した人のような足取りで廻り階段を降りて表に出たら、戸外は薄明の神秘的な黄昏時、逢う魔が時だった。