ゾルターン・コダーイの組曲《ハーリ・ヤーノシュ》の第一曲目「前奏曲:お伽噺が始まる」が開始される。
よく知られているように、この組曲は同名のオペラ(ケルテースはその全曲の録音も残している)から編まれたものだ。主人公ハーリ・ヤーノシュは今は年老いた冴えない農夫なのだが、若き日々の血気盛んな冒険を問わず語りに話し始める、というのがこの歌劇の筋立てになっている。
ヤーノシュは勇敢にも敵陣に単身で乗り込んでナポレオン軍を撃退、皇帝ナポレオンは跪いて彼に命乞いをした。英雄となった彼はウィーンでもてまくり、オーストリア皇女にも見初められ求婚されたが、きっぱり断った。などなど。要するに、壮大なるほら話の連続なのである。
なんでもハンガリーには「これから話を始めようというそのとき、くしゃみが出たならば、そのあとの話は真実だ」という意味の諺(?)があるそうで、だからこのオペラの冒頭に置かれた「前奏曲」は途方もない壮大な「くしゃみ」で開始される。
全オーケストラが揃って大音声で、一斉に「はっくしょ~ん」とやるのである。その音響の豊かさ、拡がりといったらまさに圧倒的だ。
ケルテースの振り下ろすタクトが導き出した大仰なこのクシャミこそが、大袈裟でなくわが音楽人生を決定づけた。
なんという豊麗で艶やかな響きなんだろう。それまでラジオの小さなスピーカーの貧弱な音にしか触れてこなかった小生は、全身が金縛りになるような衝撃を喰らい、そのあとはただもう陶然として、次々に繰り出されるオーケストラの妙技に聴き惚れた。
コダーイが開陳する管弦楽法は実に光彩陸離たるものだから、初めて生のオーケストラを耳にした小生がその鮮烈さに魅せられたのもむべなるかな。記憶の彼方で、あのときの瑞々しい響きの残響が今も鳴っているように感じるのは錯覚なのだろうか。
❖
これに対して、二曲目のベートーヴェンの《皇帝》協奏曲はなんだか不満が残る演奏だった。
ロベール・カサドシュのピアノは粒の揃ったたいそう流麗なものだが、その怜悧な美しさがこの曲を過剰にロマンティックに装っているようで、「ああ、これがサン=サーンスだったら良かったのに!」と悔しがったのを今もはっきりと思い出せる。剛毅さの欠片もない、ひたすら綺麗事に終始する演奏だった。こんな軟弱な音楽は断じて《皇帝》ぢゃない! そう内心の声が告げた。
休憩を挟んだ最後の《新世界》交響曲はどうだったか? さすがにケルテースの解釈の細部はすっかり忘れてしまったが、堂々と正攻法の演奏で、覇気と自発性と愉悦感に貫かれた名演だった…ような気がするのだが、もはやそれを確かめる術はない。
ひとつだけ憶えているのは、終楽章の最後の和音が後を引くように引き延ばされ、静かにホールを満たすのを、ただもう茫然と聴き入っていたことだ。今でも耳の奥のどこかで、その余韻が微かに鳴り響いているような気がする。
確かなことはただひとつ。この日の実演に打ちのめされた小生は、生の音楽の底知れない力に、身も心も拉し去られたことだ。その魅惑に抗することなどできはしない。
つい先日のことのような気もするが、それから五十年が経ってしまった。明日はまさにその記念すべき5月3日なのである。