田舎に住む小生にとって、音楽は身近なところに存在しなかった。両親はまるで歌舞音曲に関心がなかったし、まして楽器を親しく習い覚えるような境遇ではなかった。
そんな小生でも、小学校高学年になるとラジオで音楽を聴くことを覚え、いっぱしのポップス少年になった。いくつもの洋楽ベストテン番組を欠かさずに聴き、ヒットチャートをメモした。ビートルズとローリング・ストーンズの擡頭も、米国西海岸のフラワー・ムーヴメントの隆盛も、サイケデリック・サウンドの勃興も、なにもかもリアルタイムで耳にした。
ただし、あくまで貧しいトランジスタ・ラジオの音を通してであり、ミュージシャンの形姿に接した記憶がまるでない。住んでいた埼玉の田舎町にはレコード店がなかったし、音楽雑誌なるものに触れる機会も皆無だった。
今でも笑ってしまうのだが、1966年にビートルズが来日し、そのTV中継を観たとき、どれがポールでどれがジョンなのか皆目わからなかった。それほどまでに、ラジオの音だけが情報源のすべてだったのだ。
近所に一学年下の上野容(いるる)クンという友だちがいた。彼のお父上はたしか上野修(おさむ)さんといい、ニッポン放送に勤めていて、ヴァラエティ番組のディレクターをされていた(のちに同局の看板プロデューサーとしてラジオ番組に一時代を劃すことになる)。
小生のポップス狂いを知った上野クンは、お父上が自宅に持ち帰っていた試聴用の洋楽シングル盤を気前よく小生に頒けてくれた。
ペトゥラ・クラークの《恋のダウンタウン》、ダスティ・スプリングフィールドの《この胸のときめきを》、ママス&パパスの《夢のカリフォルニア》《アイ・ソー・ハー・アゲイン》、ホリーズの《バス・ストップ》、ラヴィン・スプーンフルの《サマー・イン・ザ・シティ》...。今でもこれらの楽曲をソラで歌える(ただし空耳のカタカナ英語でだが)のは、この頃シングル盤を擦り切れるほど繰り返し聴いたからだ(自宅には辛うじてポータブル式の電蓄があった)。1965〜66年頃、中学一年から二年にかけての一時期のことだ。
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そうこうするうちに、やがてクラシカル音楽にも少しずつ興味を覚えるようになった。そのきっかけはなんだったか...。おそらく当時のヒット曲のなかに、バッハの楽曲をアレンジしたもの(トイズの《ラヴァーズ・コンチェルト》、スウィングル・シンガーズの映画主題歌《恋するガリア》)があって、その独特の不思議な魅力に開眼したからではないかと思う。
中学三年の頃にはすっかりクラシカル音楽に魅せられてしまい、AMで聴けるすべての番組を逐一メモしながら聴き、それでも飽き足りなくなった小生は、親にねだって「高校入学祝い」を半年ほど前倒しにしてもらってFMラジオを手に入れ、早朝から夜中まで聴き狂った。もちろん克明にメモを取りながら。
高校に進んで間もなくの1968年4月、たまたま上野クンの家でお父上にお目にかかる機会があり、そのとき一枚の小さな青い紙片を手渡された。なんでもオーケストラの演奏会の招待券が手に入ったのだが、「自分は行かないので、キミに進呈しよう」という話だったのだと思う。どういう経緯からそうなったのか、もはや記憶が定かではないのだが、おそらく小生のクラシカル音楽への傾倒ぶりを上野クンがお父上に伝えたのだろう。あるいはひょっとして、入学祝いという名目だったのかも知れない。
演奏会が催されたのは1968年5月3日。
その日は文字どおり、小生のその後の人生を変えた。劇的に。決定的に。運命的に。不可逆的に。
(次エントリーに続く)