四月が終わらないうちに、朝顔の植え替えを済ませることにした。十日ほど前にヴェランダの小鉢に種蒔きし、すでに双葉が出ている朝顔の苗を、別の大きめの鉢に移植する作業だが、連休明けでは遅きに失する。
思い立ったら吉日とばかり、朝のうちにスーパーマーケットで苗植え用の土を買ってきて、腐葉土とよく混ぜ合わせて鉢を満たす。そこに苗をひとつずつ慎重に移し替える。最後に上から少し土をかけて、如雨露でそっと水遣りをして作業は終了。これであとは苗がしっかり根付くのを待つばかり。
***
スーパーへの往還のついでに、駅前のセブンイレブンで小包を回収。先般タワーレコードに註文しておいた新譜CDが届いたと連絡があったのだ。
ヴェランダでの移植作業が終わったあと、土埃を払って手を洗うと、早速その梱包を解いてディスクをPCのターンテーブルに載せる。心躍る瞬間である。
こういう音源が存在すると知らされていたものの、実際に手に取り耳にすると、やはり信じがたい思いがする。芳紀十七歳のジャクリーヌ・デュ・プレが生涯で初めて公に披露したシューマンのチェロ協奏曲のライヴ録音である。収録は1962年12月12日、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホール。1962年当時のデュ・プレの演奏姿はこんなふうだ(→これ)。
"Schumann – Dvořák: Cello Concertos – Du Pré – Rostropovich"
シューマン:
チェロ協奏曲
チェロ/
ジャクリーヌ・デュ・プレ
ジャン・マルティノン指揮 BBC交響楽団
❖1962年12月12日、ロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホール
ドヴォジャーク:
チェロ協奏曲
チェロ/
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
❖1962年9月6日、エディンバラ、アッシャー・ホール(エディンバラ音楽祭)
ヴィラ=ロボス:
《バキアナス・ブラジレイラス》第五番 より「アリア」
ソプラノ/ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
チェロ/
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ
ロンドン交響楽団の七人のチェロ奏者
❖1962年8月23日、エディンバラ、アッシャー・ホール(エディンバラ音楽祭)
ICA Classics ICAC 5149 (2018) →アルバム・カヴァー
エルガーのチェロ協奏曲があまねく絶賛され、その名演とともにもっぱら記憶され回想されるジャクリーヌ・デュ・プレだが、彼女の資質が最も無理なく十全に発揮されたのは、含羞と憂愁に満ちたシューマンのチェロ協奏曲なのではないかという思いが強くある。彼女が1967年3月にニューヨーク・フィルの定期演奏会でレナード・バーンスタインと共演した際のライヴ録音を知る方ならば、小生の意見にきっと賛同してくれるだろう。
1968年にスタジオ収録されたデュ・プレによるシューマンの協奏曲の正規録音を聴いた吉田秀和はこう評している。
それは、一口でいえば、もう音楽がいっぱいつまっている演奏である。出だしの主題がはじまると、もう私たちは、そのチェロの生命の限りをつくしたような歌の噴出に、打たれないわけにはいかない。
第一楽章の緊張の山頂から一挙にかけおりてきて、つぎの柔らかな草原の褥に腰をおろすその転換を完全に準備する、そういう歌なのである。息苦しいほどの高さとゆったり心暖まる広さとが一瞬のうちに重なり合い、そうして入れかわってゆく。それは若くて、しかもすごく音楽性の充実した人からしかきかれないものかもしれない。
これらの評言はそっくりそのまま、デュ・プレが1962年に初めて人前でこの協奏曲を弾いた実演にも当てはまる。それはまさしく「生命の限りをつくしたような歌の噴出」そのものであり、「若くて、しかもすごく音楽性の充実した人からしかきかれないものかもしれない」。なにしろこのとき彼女は十七歳の若さだったのだから。
仔細に聴くならば、僅かに音程がふらつく部分や解釈が浅い箇所もないではないが、生まれて初めて挑戦する協奏曲でここまで深々と朗々と歌えるのは、彼女の天才の証し以外の何物でもなかろう。これを生で聴いた人はその感動を終生忘れられなかったはずだ。伴奏にジャン・マルティノンの老練なタクトを得たことも、この演奏に錦上花を添える結果をもたらした。
当時の彼女はすでに恩師ウィリアム・プリースの許を離れ、パリでポール・トルトゥリエの指導を受けていた。そのときの課題曲はほかでもない、シューマンの協奏曲だったのだ。
トルトゥリエは彼女の運指や運弓を口喧しくチェックし、シューマンの協奏曲の解釈を細部まで事細かに伝授した由。厳しくも懇切な大先輩はデュ・プレの天才を見抜くと共に、今は基本を敲き込む時期だとし、「しばらくの間は実演を避けるように」ともアドヴァイスしたという。
その助言にいわば背く形で彼女はこの協奏曲の実演に臨んだわけだが、これだけの成果が上がれば師匠も文句が言えなかっただろう。後年やはりデュ・プレを指導したムスチスラフ・ロストロポーヴィチは「私がこれまで耳にした最も完璧なシューマンだ」と彼女の演奏を称賛したという。トルトゥリエは彼女にシューマン解釈の奥義を伝えたのだ。
この1962年のライヴが重要な理由はもうひとつ、終楽章で彼女が弾く耳慣れない長大なカデンツァの存在にある。
周知のとおり、シューマンのチェロ協奏曲の終楽章ではコーダの直前にごく短い独奏部がある。ただしオーケストラ伴奏附きの異例なカデンツァだ。そしてフェルマータ(休止記号)があって、そのまますぐ終結部へと続く。再び吉田秀和を援用するならば、「[終楽章では] その中央にカデンツァがあり、これは独奏者のソロではなくて、管弦楽の伴奏を伴ったカデンツァである点で、典型的にロマンチックなのだが、かつて私が何かの本で読んだ限りでは、管弦楽つきカデンツァというのが、そもそも、この曲で始まったのだという説もあるらしいのである」。
デュ・プレが奏でるカデンツァは上記のフェルマータ記号の箇所に挿入され、管弦楽の伴奏抜き、しかも二分間以上も続く長大なものだ。吉田翁は触れていないが、シューマンの協奏曲のこの箇所にチェリストが独自のカデンツァを挟み込むのは20世紀半ば頃までは広く行われた演奏慣習だったのである。カザルスが戦後プラド音楽祭で弾いた有名な録音もそうだし、ピヤチゴルスキーやフルニエといった往年の大家はそれぞれ自作のカデンツァを用意してこの曲に臨んでいた。
驚いたことに、1962年にデュ・プレが弾いたカデンツァは上に名を挙げた三大巨匠のカデンツァのどれとも異なるユニークなものだ。第一楽章の主題がさまざまに回想され、内省的な瞑想へと再び誘う。徒らに技巧を誇示するようなパッセージは皆無で、ひたすらに深く沈潜する。
この協奏曲の終楽章は第一・第二楽章から一転して明朗快活な曲想のため、「突然それまでの天上の世界、あるいは高い幻想の世界から地上に飛びおりたかのよう」「音楽としては前より高いとは、恐らく、いえないだろう」(吉田秀和)と難詰されもするのだが、デュ・プレの奏でるカデンツァはそこに夢幻的な味わいを呼び戻すことで、この楽章の現世的な欠陥を救っている、と云うこともできそうだ。これは実に素晴らしいアイディアだ。
読者諸賢にはもうおわかりだろう、このカデンツァこそはほかでもない、当時の彼女の師匠ポール・トルトゥリエが自分用に拵えたものなのである(トルトゥリエは正規録音でも実演でも一貫してこの自作カデンツァを弾いている)。彼は愛弟子に「終楽章では是非とも私のカデンツァを挿入するように」と強くアドヴァイスしたに違いない。
後年のデュ・プレはこの師匠のカデンツァを弾くことをやめた。ロストロポーヴィチを始めとする戦後派のチェリストたちは自作カデンツァを挿入する「古めかしい習慣」を肯んじなかったから、デュ・プレもその趨勢に倣って、シューマンの書いた「楽譜どおり」の演奏をよしとしたのである。だから1967年のバーンスタインとの共演でも、68年のスタジオ録音でも、彼女はもうトルトゥリエ作のカデンツァを弾こうとはしなかった。
この夢見るようなカデンツァを彼女が放棄してしまったのは如何にも惜しい気がする。ここにロストロポーヴィチの意向を読み取るのは穿ち過ぎかもしれないが、トルトゥリエのカデンツァを省いたことで、図らずも彼女はかつての師匠からの離反を表明する結果となった。
以上のように演奏史をざっと繙いてみたとき、1962年12月のライヴの比類ない価値は自ずと明らかだろう。開花を前にした大輪の薔薇さながら、芳紀十七歳のジャクリーヌ・デュ・プレが奏でた、ただ一度だけ、二度はない(Das gibt's nur einmal)、かけがえのないシューマンなのだ。