昨日はふと思い立って朝早い新幹線で京都まで出向いた。駅から100番の市バスに乗り、「銀閣寺前」で下車。バス停すぐ前に立地する白沙村荘橋本関雪記念館を訪れた。十時の開館から間もない頃合いなので、庭園にはまだ人影もなく、雨上がりのしっとりした空気に包まれた木々の新緑が清々しい。
ここを訪れるのは二十年ぶり位か。敷地の奥に建つ美術館は四年前に新築されたばかりだから、小生はもちろん初めてである。訪問の目的はほかでもない、今ここで開催中の企画展「名作の帰還 〜琵琶行・木蘭・秋桜老猿」。
永らくDIC川村記念美術館で親しまれてきた橋本関雪の逸品三点が売却されたニュースに心を痛めていたが、ほどなくここに三点揃って収蔵されて公開に漕ぎ着けたと聞き、「なんとしても観たいものだ」と希っていた。
これらが川村コレクションに加わる際に館員として関与した小生としては、苦く複雑な思いを禁じ得ないが、展覧会タイトルどおり、三作品が故地である関雪旧邸に「帰還」を果たしたことに深い感慨を覚えずにいられない。
緊張の面持ちで展示室に入ると、いきなり三作品と出くわす。左方に《琵琶行》、右方に《木蘭》、正面の壁に《秋桜老猿》という配置である。さんざん見慣れた作品なのに、新鮮な驚きに目を瞠る。展示空間が異なると作品の趣が変化するのは承知しているが、これにはやはり息を呑んだ。
今年で制作百周年という代表作《木蘭》が今も変わらず高雅な色彩の調和を保つのは、観る者にとって大いなる眼福である。出世作である《琵琶行》には、片隻だけの習作下絵が残されており、今回は同じ展示ケースに本画と隣り合わせに並べられたのも床しい(かつて川村で並んで以来のことだ)。
展示室の広さやガラスケースの大きさがこれら三点を収めるのにぴったりなのにも驚かされる。まるで帰還を予期していたかのように。ここが作品たちの「終の棲家」であることを強く実感させられた。
なんのアポイントメントもなく不躾に赴いたにもかかわらず、関雪の曾孫である橋本眞次副館長の令夫人にご挨拶することができた。
このたびの新収蔵を壽ぐとともに、川村がこれらを維持できず売却したのを残念で不甲斐なく思うとお伝えすると、「かつて海外流出しかけた《木蘭》をオークションで落札してくれた川村記念美術館には感謝しているのですよ」とのかたじけないお言葉を頂戴した。
そのあと白沙村荘に隣接するレストラン「ノアノア」で軽く昼食。オーソドックスなパスタを食したあと、令夫人のご配慮で食後にデザートと珈琲がサーヴィスされたのも嬉しかった。難有くいただく。
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これにて京都行きの所期のミッションは完遂できたのだが、折角なので指呼の距離にある慈照寺まで足を延ばす。
ここもずいぶん久しぶりである。参道が俗っぽくなり、鎌倉の小町通りや浅草の仲見世さながらだが、さすがに境内の静謐な佇まいは昔と変わらない。
修学旅行の高校生たちや海外からの観光客にたち混じって、型どおりに観音殿(銀閣)、向月台、銀沙灘(ぎんしゃだん)をつらつら眺めたあと庭園をぐるり一巡、背後の高台にも上って寺域全体を見降ろし、京都市街や遠く丹波の山並までも見遥かした。
高台から降りて再び境内を歩いていたら、「国宝東求堂特別公開」の掲示が目に入った。おゝ、そうであった、東求堂といえば同仁斎、四畳半の書斎には違い棚と、床の間の原型とされる付書院の設えがあり、書院造の原型とも草庵茶室の始まりともいわれる。
限定二十名ずつの見学、次回の二時半の回にはまだ空きがあるという。一も二もなく参加することにする。千載一遇の機会とはこのことだ。
案内係に招じ入れられた同仁斎はさすがに凛として身が引き締まるような空間だ。簡素そのものの室内だが、狭さを感じさせないのは充分な天井高の故もあろうか。今回の展示では違い棚に茶道具、付書院の板には唐物の文房具がそれらしく並べられ、右端にはそれらの配置を伝える古記録『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』の巻物(複製)が置かれている。
小生は昔々小学館の『少年少女まんが日本の歴史』の室町時代の巻を編集しているとき、このあたりの委細を監修者の先生方から手ほどきしてもらったことがある。同仁斎は茶室や書院造の始まりであるばかりか、将軍コレクションの宝物を展観する場であり、わが国における博物館・美術館の濫觴でもあるのだと。あれから三十余年が過ぎて、やっとその現場をつぶさに目にすることができて感慨また一入だった。なんたる僥倖であろうか。
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慈照寺を辞したのは三時過ぎ。まだ少し時間も余力もあるので、再び同じ市バスの100番に乗って五条坂の停留所で下車。ここから地図を見ながら裏通りをしばらく迷い歩いて辿り着いたのが河井寛次郎記念館。とりたてて陶芸に関心があるわけでなく、なんの予備知識もないままに「ここは必ず訪れるべし」との知友の教唆にただ従ったのである。
道に面した建物はなんの変哲もない、ごく普通の京の町屋の趣なので、看板がなければ気づかずに通り過ぎてしまいそうな地味な外観だ。
だが内部に足を踏み入れると面目が一新する。奥に細長い敷地に中庭を囲むように建つ木造の家屋は河井寛次郎が三十年近く暮らして創作と生活の場とした旧宅そのものである。あちこちに陶芸や木彫の作品が置かれているが、全体の趣はあくまでも生前の住空間そのもの。主が世を去って半世紀以上になるのに、まだ生きてそこにいるようなヴィヴィッドな雰囲気を強く醸す。よほど維持と保存に意を用いているのだろう。
たまたま館内で係の女性が懇切な案内をしているところだったので、一緒に聴かせていただく。少し進むと小ぶりな素焼窯があり、さらに敷地の奥まったあたりには堂々たる登り窯があるのに吃驚した。山里ならともかく、京の市街地に築山が築かれ、蒲鉾を段々に連ねたような登り窯が設置されているのだ。なんでも、この窯が先にあって、それを譲り受けた寛次郎がその隣接地を手に入れ、自宅を構えたのだそうだ。窯は近隣の陶芸職人と共用で用いていた由。かつては界隈にいくつも窯があって、製陶業が営まれていたという(だからこそ清水焼が栄えたのだ)。1971年に条例ができ、市街地での窯が禁止されてめっきり廃れた由。なるほどなあ。
案内役の女性は鷺 珠江(さぎたまえ)さんといい、同館の学芸員にして寛次郎のお孫さんなのだそうだ。子供時代に生活を共にした祖父の思い出話が次から次へと繰り出されて興趣が尽きない。彼女によれば寛次郎が暮らした環境を家族ぐるみで、そのまま保存するように日々努めているのだという。
庭には直径60~70センチほどの石の球が無造作に転がされている。なんでも知人が石灯籠を進呈しようとしたとき、寛次郎は「灯籠は勘弁してくれ、代わりに石でできた球体が欲しい」と所望したのだとか。置き場所も彼があちこち動かして、ここぞという場所を定めたのだそうだ。このように、館内のすべての細部に寛次郎の意図と配慮がはたらいている。家そのものがまるごと彼の作品なのだ。
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すっかり打ちのめされ、呆然と館を後にして外の裏道へ出た。
橋本関雪記念館、東求堂同仁斎、そして河井寛次郎記念館。たっぷり半日を京都で過ごして、訪れたのはたった三か所だったが、この選択に悔いはない。これこそ京都、この歴史ある古都ならではの魅惑的な底力に、身も心も圧倒されたまま、放心した人のように100番の市バスの乗客となった。
追記)
河井寛次郎記念館をあちこち観覧していると、雉虎縞の人なつこい猫がしきりに足元にじゃれついてくる。鷺 珠江さんの話ではここの飼い猫ではなく野良猫だそうで、二年ほど前から館に通ってくるという。
名前は「えきちゃん」。実はこの猫は京都一有名な猫なのだとか、岩合光昭さんの写真集の表紙にもなっている由。→これ