この週末の備忘録を記しておく。何事も記録に残さないと忘れてしまう。記憶ほど不確かなものはないからだ。「記憶の限りでは」などと見苦しい無様な弁明をしないで済むように。
4月13日(金)
佐倉のDIC川村記念美術館で「ゆらぎ ブリジット・ライリーの絵画」展のオープニング。かつて奉職した美術館だが、退職して十五年間、ここの展覧会の開会式に列席するのは初めてではなかろうか。オープニングのような晴れがましい場は不似合いだし、会いたくもない苦手な人物を避けたい気持ちも強く、自然と足が遠のいていた。今回はカタログ編集の一翼を担った関係で、顔を出さないわけにいかなかった。
立派な回顧展だ。出品作31点は多すぎず、少なすぎず、半世紀を超えたブリジット・ライリーの画業を辿るのに過不足ない点数である。うち11点は国内の美術館が所蔵する作品だが、一堂に会するのは初めてだろう。日本にはない最初期と1990年代以降の作品は海外から借用し、最新作は美術館の壁にじか描きされている(助手たちの手になる再現作品)。
日本では曲線状のストライプの揺らぎを用いた作風が70年代に逸早く紹介されながら、そのあとが続かなかった。80年代後半からの新展開はほとんど知られないままだ。本展が日本では実に38年ぶり(!)の回顧展だという一事からも、不当に等閑視された実情が了解されよう。英国を代表する巨匠に対し、永らく非礼を重ねてきたことになる。
ざっと展示室を一巡しただけなので偉そうなことは書けないが、ここには時代とともに変化しつつ一貫性を保つライリーの強靭な個性がまざまざと感じられ、その仕事の純度の高さに打ちのめされる思いがした。「ゆらぎ」とはライリーの絵画につきものの形容句だが、彼女の歩みは微塵も「ゆるぎない」ものと実感された。会期中に何度か足を運ぼうと思う。
レセプション会場では旧知の方々と久しぶりにお目にかかった。栃木県立美術館の木村学芸員、足利の鰻屋で現代美術コレクターの大川ご夫妻、カタログ制作の老舗「アイメックス・ファインアート」の田久保社長。田久保さん曰く「38年前のライリー展のカタログは俺が作ったんだ」。幸いなことに苦手な人物にはひとりも出くわさずに済んだのは助かった。やれやれ。
4月14日(土)
正午過ぎに本郷三丁目駅に着き、「ぶどう亭」という洋食屋で軽い昼食。かねてから示し合わせてあったように、昵懇の古書店へ赴いて小一時間ほど歓談。そのあと店主と連れだって地下鉄で霞が関へ。そこから歩いて国会前を目指す。同じ方向へと向かう人たちが大勢いるのが心強い。
二時半に国会正面を遠望する交叉点に到着。両側の舗道はすでに参集した人々でごった返している。織るような人波を掻い潜って右側の舗道を少しずつ前へと歩む。同行者とはぐれぬよう注意を払いながらの前進だ。途中で取材中の荒川俊児君とすれ違う。四十年来の旧友である。ほんの一瞬、互いに目配せするのがやっとだ。
ようやく国会議事堂と指呼の距離まで近づき、そこで愛用の赤いメガホンを手にシュプレヒコールと唱和する。叫びたいのは端的に云って「嘘をつくな」「膿はお前だ」そして「アベハヤメロ」である。
ほどなく本部のマイクを握った慶應大学名誉教授の金子勝さんが云い放つ。「安倍は歴代のなかで最も愚かな首相です。だが過去の独裁者はみな愚かな人間ばかり。愚か者の独裁者に国を任せておくと恐ろしいことになる」と喝破した。まさしくそのとおり。異議は全くない。
三時半に主催団体が交替するとシュプレヒコールの口調がにわかに一変する。在来のサヨク絶叫調から畳みかけるようなラップ調になった。それと同時に警官隊にも慌ただしい動きがあり、車道が大型車両の車列で通行遮断されたかと思うと、両側の舗道に溢れかえる人垣がどっと決壊し、見る間に議事堂正面の車道いっぱいにどっとなだれ込んだ。
2015年秋の戦争法案に反対する集会と同じ光景の再来である。あのときと状況は全く変わっておらず、むしろ政権の悪辣さがいや増すばかり。ただし、愚か者の陣営がほうぼうで破綻し、自滅しかかっているところが異なる。
広い車道を自在に歩き回れる解放感を味わいつつ、何度も議事堂のほうを振り返っては睨みつけた。あちらこちらで思い思いに声が上がる。旧来のシュプレヒコールもあれば、輪になって踊りながら叫ぶ若者たちもいる。この好き勝手にバラケた感じ、てんでんばらばら感はむしろ好もしいものだ。
四時を回ったあたりで初老二人組はどっと疲れを覚えて、近傍の憲政記念館脇のベンチでしばし休憩。歩き続け、立ちどおし、声を限りに叫んだので疲労困憊なのだ。おまけにポツリ、雨も降ってきたので、「あとは若い人たちにお任せしよう」とばかりに退散した。
もちろん、これで終わりぢゃない、またここに来ますよ、何度でも。「膿の親玉」が退陣するまで、叫び続けよう。なにしろ愚かな恥知らずが相手なので、じれったいほど時間がかかるのだ。やれやれ。
4月15日(日)
朝になっても昨夜からの強風と雨が一向にやまない。飼い猫に起こされて寝床からしぶしぶ身を起こすと、全身がだるく、節々に痛みを覚える。やはり初老の身に無理は禁物なのだ。
昨日の続きで、ジャン=クロード・マルゴワールを偲んで何か聴こうと思うが、四時間近い《ポッペアの戴冠》では荷が重いので、モンテヴェルディの《タンクレディとクロリンダの戦い》と《情け知らずの女たちのバッロ》を組み合わせた一枚をかけることにした(蘭CBS, 1988 →アルバム・カヴァー)。この名盤もまた長く入手困難だったが、つい先頃ようやく再発売されたらしい。
ヴェランダの植木鉢に朝顔の種を蒔くと約束したのに、いつまでも愚図愚図していたので、業を煮やした家人から「もう蒔いてしまったので、バケツで水を汲んできて!」と一喝される。だらしなくも不甲斐ない週末と相成った。やれやれ。