九州在住の太田丈太郎さんから論考の抜き刷りが届いたのは十日ほど前のことだ。すぐに通読したのだが、諸事多忙にとり紛れて感想をしたためるのが遅くなってしまった。
論考のタイトルは「イリーナ・コジェーヴニコワのアーカイヴについて」。彼が奉職する熊本学園大学の海外事情研究所から出た『海外事情研究』第四十五号からの抜き刷りである。
イリーナ・コジェーヴニコワ Ирина Кожевникова(1925~2011)の名は、わが国では長く日本に住んだ画家でロシア語教師ワルワーラ・ブブノワの優れた評伝『ブブノワさんというひと』(三浦みどり訳、群像社、1988
→これ)の著者として知られていよう。小生もこの見事な伝記には教えられるところが多く、面白く読み通したのち、必要に迫られて何度も拾い読みしたものだ。
ただし、その著者がいかなる人物かは、同書カヴァーに記された「
1925年、モスクワに生まれ、東洋学研究所を卒業。『イズヴェスチャ』『コムソモーリスカヤ・プラウダ』新聞社を経て、1964年以降『ソヴェート文学』編集所に勤務。ブブノワ関係をふくむ日ソ文化交流と現代日本文学に関する著述が多数ある。ソ日協会の文化委員会議長としても活躍中。」という短い紹介文でしか知り得なかった。
太田さんはひょんな機会にモスクワの友人からコジェーヴニコワの未整理の遺品の存在を知らされ、昨年そのすべてを託されて、日本に持ち帰った。
本論はこのように太田さんが受け継ぎ、整理をあらかた終えたコジェーヴニコワのアーカイヴがいかなる内容のものか――そのあらましを記した最初の報告であり、日露交流史上に特筆すべき発見をいくつも含んだ実に興味深いものだ。
コジェーヴニコワが残したアーカイヴは、研究の副産物として彼女の手元に残ったブブノワ関連の文書と、日ソ文化交流に尽くしたコジェーヴニコワ自身の私的な文書(手紙、写真など)に大別できる。
ブブノワ関連の文書はその大部分はコジェーヴニコワの生前にモスクワの国立文学芸術文書館に譲渡されており、太田さんの手に渡ったのはその残余に過ぎないのだが、それでも米川正夫や八杉貞利らブブノワと親しかった日本人からの未公刊の手紙が数多くあり、未来派の研究者ハルジエフからの書簡、秋田雨雀が揮毫した石川啄木の歌の巻物など、今後のブブノワ研究に欠かせない資料を多く含む。
とりわけ、ブブノワの早稲田大学での教え子、佐々木千世(1933~1970)に関わる文書にはひどく興味をそそられた。ブブノワは佐々木を愛娘のように可愛がり、養女にすることも考えたのだという。
アーカイヴには佐々木がブブノワに宛てた流暢なロシア語の手紙のほか、彼女をモデルに描かれた岡本唐貴の油彩肖像画《みどりの石》(1958)とそっくり同じ服装の写真が含まれており、不慮の交通事故で早世し、開高健のモデル小説『夏の闇』で歪曲して伝えられた彼女の実像を知るうえで、またロシア文学者としての彼女の仕事を再評価するうえで、重要な手掛かりを与えるものだろう。
さらに興趣をかきたてられるのは、コジェーヴニコワ自身が遺した私的アーカイヴである。
「雪どけ」以降にわかに盛んになった日ソ文化交流事業に深く関わったコジェーヴニコワは、1965年にモスクワでのシンポジウム出席のため訪ソした島尾敏雄や中里迪弥と親しく交際した。
「トルストイ展」(1966)や「ソ連所蔵名品百選展」(1971)などの展覧会(小生はその多くを実見した)に練達の日本語通訳として携わり、長期間にわたって日本に滞在した。それらの公務を縫うように、日本の作家たちとの交友をさらに深めている。
岩波書店の児童書編集者で童話作家いぬいとみこ(乾富子)が1963、64年の訪ソ時にコルネイ・チュコフスキーと面会したのも、コジェーヴニコワの仲介とお膳立てのお蔭だった。
このたび陽の目を見たアーカイヴには、いぬいがチュコフスキーの顰みに倣って練馬の自宅に開設した家庭文庫をコジェーヴニコワが1971年に訪れた際の貴重な写真が遺されている。彼女はいぬいの童話『うみねこの空』の露訳者でもあり、彼女が児童文学の日露交流で果たした役割も見逃せない。もっともチュコフスキーはこの露語版『うみねこの空』を読んで落胆し、「まったくあれはどうしようもない!」と慨嘆したそうだが。
こんなふうに太田さんの論考を逐次紹介していたらキリがない。それくらい面白いエピソードと心躍る新知見に満ち、裨益するところの大きい内容なのだ。
論文の最後は、戦後間もない若き日のコジェーヴニコワがいかにして日本語を学び始めたか、その驚くべき経緯が詳しく綴られている。全く想像を絶するような過酷な環境下で、どのようにして日本語が伝授されたのか。この部分こそは本論中の白眉であり、日露文化交流史に興味を抱くすべての者にとって必読の文章といえるだろう。
太田さんの論考はネット上でも全文が読める。
→ここ