たまたま読み返している音楽エッセイのなかに、ルドルフ・ゼルキンとアルトゥール・ルービンシュタインによるブラームスの第二ピアノ協奏曲の録音を聴き較べるくだりに出くわした。
筆者はゼルキンが生涯で四度この曲を録音したと記したあと、「しかし一方のルービンシュタインも負けてはいない。彼も十代の頃からこの曲には深い個人的な思い入れがあって、生涯にやはり四度録音している」と述べる。いやはや、どちらの巨匠もいい勝負なのだ。
そして、そのあとに次のような一文が続く。
ルービンシュタインでは、ヨーゼフ・クリップス指揮のRCA交響楽団と組んだ録音(LM2296・LP、1958年の吹き込み)が個人的に好きだ。それほど世間の評判にはなっていないみたいだが、格調ある端正な演奏で、気持ちが頭からしっぽの先まですっぽりと音楽の中に入っている。古い録音ながら、熱気もひしひしと伝わってくる。それに比べるとフリッツ・ライナーとの共演盤は風格のある演奏ではあるけれど、音楽の作りが全体的にいささか古風だ。もちろんそれはそれでひとつの味わいであるわけだが。ルービンシュタインという人は世間的に、ショパンのスペシャリストみたいに見なされているふしがあるけれど、シューマンやブラームスの演奏には、ショパンを演奏するときとはまたひと味違った気合いが入っている。このくだりを読んで、おや、そうだっけかな?と訝しく思った。
ルービンシュタインがフリッツ・ライナーの指揮で録音したのはブラームスの第一協奏曲ではなかったのか、と。第二も録音したという記憶が全くないのである。
いよいよ耄碌が進行してきたのかと思い、慌てて調べてみると、ルービンシュタインによるブラームスの第二協奏曲の公式録音は以下の四つであるらしい(数ある実況録音は除く)。
アルバート・コーツ指揮 ロンドン交響楽団(1929)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 (1952)
ヨーゼフ・クリップス指揮 RCAヴィクター交響楽団 (1958)
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 (1971)やっぱりそうだ。ライナーとの共演盤は存在しなかった(そもそもルービンシュタインとライナーとは反りが合わず、1956年にラフマニノフの第ニ番の録音を巡って諍いになり、両者は決裂した)。
思い違いしているのは小生ではなく、引用文の筆者のほうだった。
そろそろ種明かししたほうがよさそうだ。その筆者とは誰あろう、村上春樹なのである。出典はエッセイ集『意味がなければスイングはない』(文藝春秋、2005)。
村上春樹がブラームスの第二協奏曲を愛好しているらしいことは、昔から知っている。『ノルウェイの森』のなかの次の一節から想像できたからだ。
我々がコーヒー・ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の隅っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。
「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすりきれるくらい聴いたわ。本当にすりきれちゃったのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」世にも名高いバックハウス=ベーム=ウィーン・フィルの共演盤、録音は1967年だから、このくだりの場面設定(1969年の夏か秋口)と年代的には矛盾しない。ただし、ここ(療養所)に七年もいるというレイコさんが「昔はこのレコードをすりきれるくらい聴いた」というのは彼女の記憶違いだろう。その頃はまだ当レコードは発売はおろか録音もされてなかったのだから。
もうひとつ考えられるのは、レイコさんが聴き馴染んだ「バックハウスとベーム」とは、このステレオ盤ではなく、はるか昔に両者がドレスデンで録音したSP録音(EMI, 1939年録音)だという仮説だ。この古いモノーラル録音も、1963年4月に東芝から覆刻LP(GR-78)が出ているから、彼女がこれを「隅から隅まで」「なめつくすように」聴いた可能性もないではない。だが、FM放送がわざわざ音質の乏しい大昔の音源を流したりするだろうか。その確率はゼロではなかろうが、限りなく低いと思う。
ともあれ、ここでわざわざブラームスの第二協奏曲の話題を持ち出し、レイコさんに「三楽章のチェロの出だしのメロディー」を口笛で吹かせるくらいだから、この曲は村上春樹のフェイヴァリットに違いなかろう。この小説を新刊で読んだとき、そう直覚したのだ。
それはともかく、村上が先の音楽エッセイのなかで、「格調ある端正な演奏」で「気持ちが頭からしっぽの先まですっぽりと音楽の中に入っている」と、いささか破格の言い回しで絶賛する演奏、すなわちルービンシュタインがヨーゼフ・クリップス指揮で弾いたブラームスの第二協奏曲を聴きたくてたまらなくなった。
書庫のレコード棚の奥をまさぐると、おお、あったではないか!
"The Rubinstein Collection Vol.38 -- Brahms"
ブラームス:
ピアノ協奏曲 第二番*
間奏曲 作品117の2
間奏曲 作品116の5
狂詩曲 作品79の2
ピアノ/アルトゥール・ルービンシュタイン
ヨーゼフ・クリップス指揮 RCAヴィクター交響楽団*1958年4月4日、ニューヨーク、マンハッタン・センター*
1970年6月10~12日、ローマ、RCAイタリアーナ・スタジオ
RCA 09026 63038-2 (1999)