音楽は純粋にわが愉しみ、と口にしながらも、その一方で向学のためのディスクも買い込むのは悲しい性というべきか。少し前に発売が予告されていた新譜がやっと入荷したというので、急ぎ取り寄せて耳を欹てる。
"Русские Балеты Сергея Дягилева
Исторические записи 1916-1930 годов"
シューマン:
《謝肉祭》抜粋 *《謝肉祭》初演=1910年5月、ベルリン
■ 前口上 (グラズノーフ編)
■ 高雅な円舞曲 (ペトローフ編)
■ コケット (カラファーティ編)
■ 再会 (ヴィートルス編)
■ パガニーニ (リャードフ編)
■ ドイツ円舞曲 (リャードフ編)
■ 告白 (ソコローフ編)
エルネスト・アンセルメ指揮
バレエ・リュス管弦楽団1916年4月28日、ニューヨーク
ストラヴィンスキー:
《ペトルーシュカ》抜粋 *《ペトルーシュカ》初演=1911年6月、パリ
アンリ・ドフォッセ指揮
バレエ・リュス管弦楽団1927年6月、録音場所未詳
プロコフィエフ:
《道化師》組曲 抜粋 *《道化師》初演=1921年5月、パリ
■ 女道化師たちの踊り
■ 若い娘に変装した道化師
■ 道化師の娘たちの踊り
■ 商人の寝室で
■ 道化師と商人の諍い
■ 終幕の踊り
アルベール・ヴォルフ指揮
コンセール・ラムルー管弦楽団1933年5月12日、パリ
《鋼鉄の歩み》抜粋 *《鋼鉄の歩み》初演=1927年6月、パリ
■ 登場人物の入場
■ 農民兵站部員の行進
■ 執行委員
■ 露店商人
アルバート・コーツ指揮
ロンドン交響楽団1932年2月18日、ロンドン、アビー・ロード、スタジオ1
チャイコフスキー:
《オーロラの結婚》抜粋 *《オーロラの結婚》初演=1922年5月、パリ
エフレム・クルツ指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1937年7月16~17日、ロンドンMoscow Conservatory Records SMC CD 0202 (2017)
→アルバム・カヴァーディアギレフは自ら率いるバレエ団の映像(動画)が残るのを極度に嫌っていた。ダンサーは入団時「決して映画に出演しない」旨の誓約書を書かされたそうだ。
だからニジンスキーをはじめとする驚異的な至芸はモノクロ写真とイラストレーション、そして同時代の人々の観劇記録として残されたのみ。出現するなり消滅するバレエ芸術の宿命を体現するような塩梅だった。
それでは音源はどうか。1909~29年という年代はレコード産業が目覚ましい成長を遂げた時期であったが、その間にレコードに刻まれたバレエ・リュスの「音」は、これまたごく僅かしか残されていない。
これはディアギレフの罪というよりも、当時の収録技術ではバレエの舞台を彷彿とさせるような豊かな音質によるオーケストラ録音はまだ難しく、それゆえにレコード会社もそれらの収録に二の足を踏んだというのが真実に近いだろう。
それでも、「ディアギレフのバレエ・リュス」の音は辛うじて残された。
1916年にバレエ・リュスが初のアメリカ巡回公演を敢行した際、ニューヨークでいくつかのレパートリー(むろん抜粋である)が録音された。この年の初め、敵国ハンガリーに足止めされたニジンスキー抜きで開始されたアメリカ興行だったが、ディアギレフは苦心惨憺の末ニジンスキーの解放に成功し、4月からはこの不世出のダンサーを加えた万全の陣容で巡業が続行された。この録音はまさにその4月、公演の合間を縫って行われたものだ。
オーケストラ名は「バレエ・リュス管弦楽団」(公演用に臨時編成されたアメリカ人を中心とする楽団である)、指揮は当時の座付き指揮者
エルネスト・アンセルメ。アンセルメにとっても記念すべき初レコーディングとなった。
「
セルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュス 歴史的録音 1916-1930」と題された興味深いコンピレーション・アルバムの冒頭を飾るのが、このとき収録されたバレエ《
謝肉祭》の抜粋である。ごく貧しいアクースティック録音ながら、このリズムとテンポに合わせてニジンスキーやマシーンが舞台上で踊ったのだと想像すると、湧き上がる感興は果てしない。
次の《
ペトルーシュカ》抜粋(1927)はきわめて稀少な音源でCD初覆刻である。フランスの指揮者
アンリ・ドフォッセ Henri Defossé (1883~1956)は今やすっかり忘れられてしまったが、1919年から29年にかけてしばしばバレエ・リュス公演を振った。ロッシーニの楽曲をレスピーギが編曲したバレエ《奇妙な店》世界初演(ロンドン、1919)の指揮者として辛うじて歴史に名を留める。
そのドフォッセ指揮の《ペトルーシュカ》については1927年6月にEdison Bell社が制作したというほか、録音の経緯も収録場所も皆目わからない。
演奏はまあ「どうにか音にしました」という程度だろうか。とはいえ、これは抜粋盤とはいえ、1924年のユージン・グーセンズ指揮盤に続く史上二番目の《ペトルーシュカ》であるらしく、1927年現在の「バレエ・リュス管弦楽団」(レーベル表記を信じるなら)の力量を偲ぶよすがとして、それなりに珍重すべき音源だろう。
・・・と、ここまでが正真正銘「バレエ・リュス」の音というべきもの。ただし音質は芳しくなく、刻まれた音そのものよりも歴史的価値がたち勝る音源といえようか。
続く二つのプロコフィエフ録音、《道化師》と《鋼鉄の歩み》を「バレエ・リュス」ゆかりの音源と呼ぶことには無理があろう。そもディアギレフ死後すなわちバレエ団の解散以後の録音だし、二人の指揮者(ヴォルフとコーツ)も小生の知る限りバレエ・リュス公演を一度も指揮していないはずだ。
ただし、プロコフィエフのバレエ作品の最初期の録音としては重要な存在である。どちらもそれぞれの作品の世界初録音だし、ふたりの指揮者はともにプロコフィエフと親交があり、間違いなく作曲家自身が親しく耳にした音源なのである。
アルベール・ヴォルフ Albert Wolff (1884~1970)はルーセルの第四交響曲やプーランクの歌劇《ティレジアスの乳房》の世界初演を振っており、同時代音楽にも一家言ある存在だった。オペラ座やオペラ=コミックの指揮者としての経験も豊富で、この《
道化師》抜粋でも各曲の性格の描き分けが鮮やかである。ヴォルフがステレオ期に指揮したグラズノーフ《四季》の名盤を思い出す。
アルバート・コーツ Albert Coates (1882~1953)は英国人ながら露都ペテルブルグの生まれ。マリインスキー劇場で指揮のキャリアを築き(この時期にプロコフィエフと知り合う)、のちにロンドンでロシア音楽の大家として遇された。コーツはプロコフィエフの歌劇《三つのオレンジへの恋》の英国初演の指揮者でもある。この《
鋼鉄の歩み》抜粋は彼が残した(おそらく)唯一のプロコフィエフ録音として珍重されよう。指揮ぶりに迷いがなく、音楽の把握力がうかがわれる。
ヴォルフ録音はLP最初期に、コーツ録音はLP末期に、それぞれ一度だけ覆刻されたものの、いずれも入手は困難を極める。だから今回のCD覆刻は大いに歓迎されよう。音質は上乗で、充分に鑑賞に堪えるレヴェルだ。
エフレム・クルツ Efrem Kurtz (1900~1995)はロシア出身、バレエに縁の深い指揮者で、イザドラ・ダンカンやアンナ・パヴロワのカンパニーの指揮者としてキャリアを築いた人だが、ディアギレフのバレエ・リュスとは関わりがない。だから本CDでは明らかに場違いなのだが、後継団体たるバジル大佐のバレエ・リュスの指揮者として名をなしたから、全く無縁というわけでもなかろう。
《眠れる森の美女》の短縮版《
オーロラの結婚》も、バジル大佐がディアギレフのバレエ団から受け継いだレパートリーの一作。収録は1937年というから、まさにクルツがバレエ指揮者として活躍のさなかとあって、舞台を彷彿とされる雰囲気満点の演奏だ。クルツには後年ステレオで再録音した《眠れる森の美女》抜粋盤があるため、当録音はその蔭で忘れられた感があり、今回の覆刻は意義のある嬉しい企てだ。
そんなわけで、アルバム構成にいささか無理があるものの、きわめて稀少なSP音源を発掘し、丁寧に覆刻した努力は多としたい。
珍しいモスクワ音楽院のレーベルからの発売だが、音源の蒐集にあたったのは著名なピアニスト、
アレクセイ・リュビモフだというから驚きだ。
ライナーノーツ(英・露併記)はバレエの粗筋の説明に終始し、肝腎の指揮者についての解説がないのが致命的。盛り沢山のカラー図版も、《パラード》と《ペトルーシュカ》を取り違えるお粗末さが際立つ。