頼まれ原稿の締切日が迫ってきた。いやなに、分量的には大したことがないCDのライナーノーツなのだが、目を通すべき参考書が二十数冊あって往生している。もっとフランス語を勉強しておけばよかったと今さら悔やんでも後の祭りというものだ。
こういうときに限って外出して芝居や展覧会を観てしまう。
試験前になると無関係な小説を読み耽ってしまう学生時代からの悪癖といえようか。忙中閑ありといえば聞こえがいいが、要するに現実逃避なのである。
そんなわけで昨日(1月27日)は信濃町の文学座アトリエで《美しきものの伝説》を観てしまった。周知のとおり、これは宮本研がこの文学座のため1968年に書き下ろした新劇の古典である。
公演は三日間のみ、「附属演劇研究所 2017年度 研修科卒業発表会」と銘打たれ、演劇を志す若者たちが三年間の研鑽の成果を披露する場である。
定員二百人の小空間での短期公演とあって、切符は瞬く間に売り切れたが、たまたま直前に夜の部(18時30分~)に若干枚のキャンセルがあり、それを確保して駆けつけたのだ。
云うまでもなかろうが、《美しきものの伝説》は大正期に実在した演劇人たち、女性解放運動や社会主義運動に邁進した改革者・革命家たちが実名で(ときに渾名で)登場する。
具体的には島村抱月、松井須磨子、小山内薫、久保栄、中山晋平、澤田正二郎、堺利彦、大杉栄、伊藤野枝、平塚らいてう、神近市子、荒畑寒村、辻潤といった面々である。
一方に歌舞伎ではない近代演劇をこの国に創出しようと悪戦苦闘する者たちがいて、他方に虐げられた弱者を救いだそうと命がけで闘う者たちがいて、その間にはさまざまな接点や交流があって、矛盾と抑圧のなかで光明を見出そうと誰もが必死であがく。この物語が面白くないわけがないのだ。
主な配役を書き写しておこう。小生が観たのは二組あるうちの「Bキャスト」。
先生(島村抱月)/武田知久
ルパシカ(小山内薫)/押川 諒
早稲田(澤田正二郎)/石井大樹
音楽学校(中山晋平)/玉木惣一郎
学生(久保栄)/溝井翔一郎
クロポトキン(大杉栄)/久保田響介
暖村(荒畑寒村)/橋本直樹
四分六(堺利彦)/西村知泰
野枝(伊藤野枝)/武野谷 舞
モナリザ(平塚らいてう)/岩間 愛
サロメ(神近市子)/横井麻子
幽然坊(辻潤)/齋藤一輝 ほか
研修科の若者たちはプロではない。だから演技上の不備や瑕疵はほうぼうにあるのだが、それらの欠点を乗り越えて余りあるのが、舞台全体にたちこめる若さゆえのストレートな熱気なのだ。
休憩を挟んで三時間、演技は次第に熱を帯びて、いやそれはもはや演技ではなく、そこに生身の島村抱月が、大杉栄が、伊藤野枝が本当に現出してしまうという奇蹟を目の当たりにした。
関東大震災から二週間後のよく晴れた朝、大杉と伊藤が真白い洋装で外出する(いうまでもなく二人はそのあと惨殺される)ところで幕。そのあと登場人物の全員が舞台いっぱいに並んで斉唱する「花咲かそう 花咲かそう 死ぬほど生きた人たちのため」に、不覚にも涙が滂沱と流れた。