訃報が続く。日本バレエ協会の前会長でバレエ史研究の第一人者だった薄井憲二さんが亡くなられた。享年九十三というから、文字どおり大往生である。
十代でバレエに目覚め、蘆原英了と東勇作に師事して、バレエ史と舞台での実践をふたつながら志すが、第二次大戦で応召、満洲へ送られた。敗戦後、四年間の苦しいシベリア抑留を経験されたが、これを奇貨としてロシア語を習得して帰国。東京大学を卒業後、舞踊家・振付家として数多くの舞台を踏んだ。
並行してディアギレフのバレエ・リュスについて資料の蒐集を続け、そのコレクションは質量ともに世界最大級と評価されている。
1998年に東京・池袋のセゾン美術館で「ディアギレフのバレエ・リュス」展が開催されたとき、カタログ寄稿者のひとりだった小生は、同館学芸員の一條彰子さんのご厚意で、出品資料をお借りするため薄井さんのご自宅まで同行させてもらった(研究者の芳賀直子さんも一緒だった)。
そのとき卓上に山と積まれたファイルに収められた資料の豊富さといったら! 1909年から29年までパリとロンドンで開催されたバレエ・リュスの公式プログラムは一冊残らず完全蒐集され、ニジンスキーやアンナ・パヴロワのサイン入り写真、ディアギレフの名刺や直筆の手紙、ルートヴィヒ・カイナー(Ludwig Kainer)の稀覯本『バレエ・リュス版画集』など、貴重きわまりないコレクションを次から次へと開陳され、惜しげもなく展覧会に貸与してくださった。
蒐集家の端くれである小生は薄井さんの膨大な所蔵品にすっかり打ちのめされ、言葉を失ってただただ瞠目するばかりだった。この展覧会に出品面で協力しようという当初の目論見は雲散霧消し、ひたすら一寄稿者として「ニジンスキーを観た日本人たち」なる小論に注力することになった。その後ライフワークとなる研究テーマとの出逢いは、完全無欠な薄井コレクションから受けた衝撃と深く結びついているのである。
2005年秋、兵庫県立芸術文化センターでニジンスキーの原振付を復元した(と称する)《春の祭典》が日本初演されることになり、その上演をぜひ観たいと旧知の古書店主ゴードン・ホリスがロサンジェルスからわざわざ来日した(いうまでもなく薄井さんはその上得意の常連客である)。
道案内として小生も同道したのだが、新幹線の車中ゴードンから「ミスター・ウスイも出演するそうだ」と聞かされ、まさか、そんな筈はあるまいと思った。いくら元ダンサーとはいえ、八十翁が《春の祭典》で踊るとは考えられない。ところが舞台を実見して驚いた。薄井さんは村の賢者(長老)役として登場したのだ! 公演後に舞台裏でご挨拶したが、そのときの矍鑠たるお姿は今も鮮明に記憶している。
最後にお逢いしたのは、2014年7月、六本木の国立新美術館で「魅惑のコスチューム バレエ・リュス」展の関連企画として薄井さんが「バレエ・リュスの功績」と題して講演されたときだ。背筋がまっすぐ伸び、口跡も鮮やか。とても九十翁とは思えぬ溌剌たる立居振舞に目を瞠ったものだ。
翌2015年暮れ、国立新美術館の研究紀要に拙論「大田黒元雄の観た『露西亜舞踊』」が載った際、ふと思いたって、同館の本橋弥生さんにお願いして、その一冊を薄井さんの許にも送ってもらった。なにぶん原稿用紙で百枚に上る長い論考なので、読んでいただけるかわからないが、「こんなことを調べています」という近況報告のつもりだった。
しばらくして、東京の古書店主から連絡があり、「薄井先生から電話をいただいた。研究紀要の論文を四時間かけて読まれたそうです。とても感心しておられましたよ」とのこと。小生が天にも昇る心地がしたのは云うまでもあるまい。
いつもお元気で頭脳明晰、記憶力抜群で肌の色艶もよく、なんとなく百歳までご活躍されるのではないかと思っていた。もう一度お目にかかり、御礼を申し上げたかった。心からご冥福をお祈りする。