島多代さんが亡くなられた。先月(11月)27日のことだ。新聞を取っていないので訃報を伝え聞くのが遅れ、お通夜にも葬儀にも参列できなかったが、幾重にも恩のある小生は小生なりに彼女の死を深く悼むとともに、児童書の国際交流における多大な業績を偲び、知友を分け隔てしないフランクなお人柄を懐かしんだ。
国際児童図書評議会(IBBY)の会長を務め、児童文化史の研究者であり、欧米の絵本の見事なコレクションの持ち主で、美智子皇后の無二の親友でもある――と多面的な貌を併せ持つ島さんだったが、小生にとっては、なんといっても1920~30年代ロシア絵本の蒐集と研究における大先輩である。
1979年に東京・中野の古本市で最初の二冊を見つけて以来、小生はその出自や歴史性については皆目わからぬまま、闇雲に少しずつ蒐集を進めていた。
[...] ロシア・アヴァンギャルドという言葉すら知らなかった25年前のぼくにとって、ロシア絵本の何たるかを理解するすべもなかったけれど、自分の感覚を信じて、とにかく見つけたら迷わず買いつづけた。[...] この国でロシア絵本のよさを知ってるのはぼくだけだろうとひそかにほくそえんでいたら、なんと日本で『ソビエトの絵本 1920-1930』という本が出版された。児童文化の研究者で絵本の私設資料館ミュゼ・イマジネールを主宰する島多代さんと、アメリカのファーレー・ディッキンソン大学の図書館長ジェームス・フレーザーさんのコレクションのなかから65冊をまとめたものです。1991年でした。打ちのめされましたね。その時点でぼくはまだ20~30冊という段階だったから、やられちゃったなという感じ。でも、その一方で、まだこんなにすばらしい絵本があるのか、もっと蒐めなきゃと、励みになったのも事実です。
――『芸術新潮』特集「ロシア絵本のすばらしき世界」2004年7月号美術館を辞してフリーになる前後、ひょんな成り行きからロシア絵本の展覧会をやることになったとき、協力を仰ぐべき人物として小生が真っ先に脳裏に浮かべたひとりが、ロシア絵本蒐集の先達である島さんだった。
全く面識がなかったから、ひどく緊張して依頼状をしたためたのを昨日のことのように思い出す。「とにかく会いにいらっしゃい」とご連絡があり、ご住所を頼りに品川駅から彼女の仕事場である「ミュゼ・イマジネール」をお訪ねした。展覧会開催から半年前、2003年秋のことだ。
展覧会だから用件はなによりもまず出品交渉である。
翌2004年春からの「幻のロシア絵本 1920-30年代」展では、芦屋市立美術博物館に寄託された吉原治良旧蔵の絵本87冊を核に、小生が集めた二百冊余から不足分を適宜補って、ソ連時代の知られざる絵本ムーヴメントの全貌を紹介する。日本初の企てである。
分量的には充分すぎる陣容だが、肝腎な数冊が欠けており、それを島さんの「ミュゼ・イマジネール」所蔵の絵本で補ってもらおうという(ひどく手前勝手で虫のいい)お願いだった。
■ 『赤いネッカチーフの少年』 1929 →これ
詩/ニコライ・アセーエフ 絵/ナタン・アリトマン
■ 『イワン・イワーヌィチ・サモワール』 1929 →これ
詩/ダニイル・ハルムス 絵/ヴェーラ・エルモラーエワ
■ 『食器はどこから?』 1924 →これ
詩/ニコライ・スミルノフ 絵/ガリーナ&オリガ・チチャーゴワ
■ 『まず第一に、そして第二に』 1929 →これ
文/ダニイル・ハルムス 絵/ウラジーミル・タトリン
■ 『海と灯台についての私の本』 1927 →これ
詩/ウラジーミル・マヤコフスキー 絵/ボリス・ポクロフスキー五冊が五冊、どれも飛びきりの稀覯絵本である。
ロシア・アヴァンギャルド美術を代表するタトリンにアリトマン、構成主義デザインのチチャーゴワ姉妹、マレーヴィチの盟友で非業の死を遂げるエルモラーエワ。テクストはやはりロシア・アヴァンギャルドを代表する革命詩人マヤコフスキー、そして反体制の不条理詩人ハルムス。顔ぶれといい、絵本の出来映えといい、展覧会には欠かせないと考えたのだが、見ず知らずの者がいきなり願い出て、果たしてお貸しいただけるだろうか。
とりわけ最後のマヤコフスキーの傑作絵本は、島さんのご著書『ソビエトの絵本 1920-1930』の表紙を飾っており、彼女がコレクション中で最も大切にしている一冊であることが容易に想像される。
話は呆気ないほど簡単にまとまった。島さんは一も二もなく展覧会の趣旨に賛同し、これら貴重なロシア絵本(島さんは「ソヴィエト絵本」という呼称にこだわった)をわれわれに貸してくださったのである。
この展覧会が新聞社や放送局や企画会社ではなく、個人の発案によってスタートしたところに、彼女はいたく心を動かされたという。
年が明けて2004年春、芦屋市立美術博物館の河﨑晃一さんと同道して五冊の絵本を借用にうかがった折りも、島さんは展覧会の開催に全面的な賛意を示されるとともに、「
大きな組織や大資本の力ではなく、ひとりの情熱が何かを創り上げることが、今のような時代には大切なのよ」と励ましてくださった。
展覧会が始まると、島さんはわざわざ芦屋まで足を運んでくださり、展示をじっくりご覧になり、われわれのトークショー(兵庫県立近代美術館の平井章一さんと小生の対談)まで熱心に聴講された。小生は緊張してドギマギしどおしだった。
島多代さんのロシア絵本コレクションが特異なのは、その大部分が彼女のアメリカ在住期に蒐集されたという点だ。
合衆国には亡命ロシア人が少なからず居住し、また左翼系の知識人が多かったところから、戦前のロシア絵本をしばしば見つけることができた由。その重要性に開眼したのは、博識な親友ジェイムズ・フレイザーの力に拠るところが大きかったとも聞かされた。
1991年にそのフレイザーとの共著『ソビエトの絵本 1920-1930』を上梓した彼女は、自分こそが戦前のソヴィエト絵本の魅力に目覚めた最初の日本人、との自負があったに違いなく、それだけに1930年代初めに吉原治良、原弘、柳瀬正夢ら尖端的な芸術家たちが同時代のロシア絵本に注目し、充実したコレクションを遺していた事実は思いがけない驚きだったはずである。
展覧会が始まってすぐ、小生は物理学者の寺田寅彦が1934年という早い時期に、マルシャーク詩・コナシェーヴィチ絵のロシア絵本『火事』を熟読玩味のうえで絶賛していたことを知り(エッセイ「火事教育」)、島さんに早速お伝えした。
彼女はその事実に目を丸くされるとともに、「
でも寺田寅彦だったら納得だわ。彼は自然界の難しい現象を子供にも理解できる平易な言葉で語ることができた人だもの。ソヴィエト絵本のよさは、当時でもわかる人にはわかったのね」と、いかにも感に堪えない様子で深く頷いたものだ。
夏になって展覧会が目黒の東京都庭園美術館に巡回した際、われわれは島さんに講演会をお願いした。
快諾された彼女はその日、展示をご覧になりながら、この美術館では前に一度、展覧会をやったことがある、と懐かしそうに口にされた。1991年に開催された「
子どもの本・1920年代」展のことだ。
情けないことに、その日の講演の内容はあらかた忘れてしまった。ただひとつ記憶に残っているのは、彼女が「
かつて『ソビエトの絵本』という本を出したのは遠い過去のような気がしてきます。自分の仕事もまた、歴史のなかに組み込まれてしまったのですね」と述懐されたことだ。
たしかに「誰も知らなかった」「幻の」ロシア絵本はこの展覧会の実現により、多くの人々が親炙するところとなり、島さんの先駆的なお仕事は(本としての仕上がりの美しさは別として)その啓蒙的な使命を終えたことになるかもしれない。
こんなふうに、思い出せるまま書き綴っていたらキリがない。
島さんにはその後もいろいろお世話になった。五年ほど前に小生が精神的な危機に陥っていたとき、励ましのお電話をいただき、「
そんなに自分を責めるべきではないわよ」と懇切に諭された。そのとき、彼女からは「
私も今、とても辛い時期なのよ。医者から余命あと一年と宣告されて。やり残した仕事をなんとか整理しておかないとならない」と気丈に口にもされた。
それからというもの、もうお目にかかることはなかった。彼女に残された時間を妨げてはいけないという思いからだ。だから直接お礼を申し上げる機会を永久に逸してしまった。それだけが悔やまれる。