この夏、アンドレ・クリュイタンスの録音集成の決定版というべきCD64枚組 "André Cluytens: Complete Orchestral & Concerto Recordings" が出たのは皆さまもよくご存じだろう。疾うに入手済みの方も尠くないのではないか。このセットには未CD化の稀少音源がいろいろ含まれていることも、フランス音楽好きならば先刻ご承知だろう。
なにぶん一万円を超える大きな組物であり、架蔵する音源との重複が多いうえ、かさばる買物が家族の非難の視線を免れないこともあり、小心者の小生はなかなか購入に踏み切れずに今日に至っている。
それではならじ、と小生は先日ついに意を決し、某オークションの助けを借りて、最も聴きたい一点のみをバラで落札した。
CD 22 & 23
ダンヌンツィオ&ドビュッシー: 神秘劇《聖セバスティアヌスの殉教》
語り/
ヴェラ・コレーヌ(聖人)
アンリエット・バロー(苦しみの母)
ジャン・マルシャン(皇帝) ほか
歌唱/
リタ・ゴール、ソランジュ・ミシェル、マルタ・アンジェリシ、マティウィルダ・ドブズ、ジャクリーヌ・ブリュメール、リュシエンヌ・ジュールフィエ
アンドレ・クリュイタンス指揮
フランス放送国立管弦楽団
レーモン・サン=ポール合唱団
録音/1954年4月8、15、16、28、29日、パリ、サル・ド・ラ・ミュテュアリテ
→LPアルバム・カヴァー
イダ・ルビンシュテインの依頼で書かれたガブリエーレ・ダンヌンツィオの詩劇にドビュッシーが曲をつけた《聖セバスティアヌスの殉教 Le Martyre de Saint Sébastien》は、全曲の上演がきわめて困難である。
ドビュッシーが作曲した音楽はほぼ一時間ほどの分量なのだが、劇そのものは上演に四時間以上を要する超大作であり、ダンヌンツィオの朗々たる美文調が果てしなく続き、その合間にところどころドビュッシーの神秘的な音楽が差し挟まれるという代物。小生はもちろん一度も上演に接したことがないが、おそらく耐えがたく退屈な舞台だろうと想像している。
当然のことながら、1911年にイダ・ルビンシュテインの主演で世界初演されて以来、完全上演の機会は数えるほどしかなく、その全貌を捉えた録音は一度たりとも行われていない。
私たちがこれまで音盤で耳にしてきたのは、初演の指揮者だったアンドレ・カプレが聴かせどころを拾い上げて管弦楽用に編んだ「交響的断章」か、合唱指揮者として初演にも関わったデジル=エミール・アンゲルブレシュトがドビュッシーの音楽を生かしながら、朗誦部分をわずかに取り込んだ演奏会用ヴァージョンのどちらかなのだ。前者だと二十分ほど、後者でもどうにかLP一枚に収まってしまう。
さて、このクリュイタンスの録音なのであるが、これこそ今に至るまで「ダンヌンツィオの劇をできるだけ忠実に辿った」「音だけで退屈しないぎりぎりの長さまで収録した」唯一無二の演奏記録なのである。
LP三枚の収録時間は131分。これとてもオリジナルの上演時間の半分にしか達しないが、この詩劇がいったいどんな(神々しく、かつ長々しい)代物なのか、おおむね想像できるだろう。これを聴かずして《聖セバスティアヌスの殉教》を語ることなかれ、なのだ。
今回のセット発売が初CD化。わが国では1979年に「クリュイタンスの遺産」という組物(16LPs)に部分的な形で収録されただけ。これぞ垂涎の録音である。