あれやこれや腹立たしい出来事が重なって心が屈託しがちだが、ようやく安定した秋日和になったので鬱憤晴らしに上京。
目的地は異なるが、先週の木曜から実に五日連続である。その備忘録。
11月9日(木)
すっきり晴れたので家人の発案により駒場へ赴いた。駒場東大前を下車、東京大学のキャンパスを抜け通用門から出て駒場公園をのんびり散策。
そのあと閑静な住宅街を歩いて
日本民藝館へ向かう。前回ここに来たのは十数年前、家人は初めてだという。事前に調べずに来たら、常設の民藝作品のほか、「
ウィンザーチェア 日本人が愛した英国の椅子」という展覧会をやっている。小規模な展示ながら、ここの収蔵品だけでなく松本民芸生活館や静岡市立芹沢銈介美術館の収蔵品も加わって、なかなか見応えある内容。英国椅子の鄙びた手作りの味わい、使い込んだ風合いが民藝館の古びた空間にしっくり溶け込んでいた。家人はこの館がいたく気に入った様子。
館を辞去すると午後一時を回っていた。そのまま再び東大キャンパスへ。銀杏並木がいい具合に色づいている。ここには1971年から73年まで学生として、79年から81年まで生協のアルバイト店員として、それぞれ過ごした思い出の地だ。ただし、大学生協の古い店舗(数年前まで現存した)はすでに取り壊されて現存せず、時の流れを否応なく思い知らされる。代わりにかつて寮のあったあたりにウルトラモダンな食堂が建っているので、ここで昼食を摂ることにした。ひとりあたり五、六百円も払えば満腹という難有い存在だ。とはいえ部外者なので老夫婦は片隅でこっそり大人しく食べた。
そのあとは腹ごなしに構内の奥まったあたりを散策。木立に覆われた池があり、本郷の三四郎池の向こうを張って「一二郎池」というらしいが、人影はなく、植栽も伸び放題の野趣あふれた雰囲気だ。
キャンパス東端の通用門から出て、松濤の商店街を渋谷方面へ散策。東急本店の角を左折して、そのまま神山町、さらに富ヶ谷へと歩を進める。この界隈は1987年から88年まで編集者として働いた故地である。ただし、馴染の店はほぼ全滅し、なにやら気取ったお洒落エリアに変貌していて興醒め。近年このあたりを「奥渋(おくしぶ)」と称するのだという。なんだかなあ。
さすがに歩き疲れた。地下鉄の駅表示が見えたので、これにて散策は終了。一万歩は優に歩いたろう。千代田線の代々木公園駅から帰途に就いた。
11月10日(金)
誘ってくれる知人があったので、お言葉に甘え
新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会へ。会場はその本拠である錦糸町のすみだトリフォニーホール。平日なのに午後二時からという変則的な開催時間だ。
演目はラフマニノフの交響詩《
死の島》(1909)とマックス・レーガーの《
ベックリンによる四つの音詩》(1913)。ともにドイツの画家アルノルト・ベックリンの絵に想を得た管弦楽曲であり、生では滅多に聴く機会がなく、まして両方が同じプログラムに並ぶなど、わが国では前代未聞のことだ。二人の作曲家の作風や管弦楽法の違いが、実演で耳にすると手に取るようにわかる。これは実に嬉しい聴きものだった。
これら二曲の間で奏されたのはチャイコフスキーの第一ピアノ協奏曲。できれば聴きたくない苦手な曲だ。独奏者はグルジア出身のハーチヤ・ブニアチシヴィリ。できれば接したくない苦手な奏者だ。仕方なく大人しく拝聴したが、やはり愉しめない。いかにも荒っぽい放恣な解釈だし、著しく抒情性を欠くのが致命的。アンコール曲のシューベルトの《セレナード》(リスト編)も珍しいが凡庸。
指揮者は上岡敏之という人で、これも初めて聴く。随分と身ぶり手ぶりが大きく、随所で楽団を煽りたてる。表情豊かと評する向きもあろうが、些かハッタリの気味もあり、真の実力のほどはわからない。定期公演には珍しく最後にアンコール曲があった。今日の主題に相応しくワーグナーの《ジークフリートの葬送行進曲》。実演はたぶん四十年ぶり位だろうか。
それにしても客席には高齢者の姿が目立つ。N響の定期をさらに上回り、むしろ老人ばかりといいたいほど。あとで知ったのだが、この楽団では一部の定期演奏会を平日の昼開催にして、ヴェテランの聴衆を想定して、凝った曲目編成を心がけているのだそうな。今日のベックリン二本立もその一環であるらしい。自分も対象者のひとりなのだと自覚せざるを得ない。
11月11日(土)
昼前に家を出て早稲田を目指す。大きな布製の肩掛け袋に重たい荷物を詰めたので、よろけながら慎重に歩く。雨降りでなくて本当に良かった。
今日は早稲田大学の小野記念講堂でシンポジウム「
世界を駆け抜けた舞踊家 伊藤道郎――記憶・資料・研究」がある。演劇博物館が収蔵する伊藤道郎関連資料がデータベース公開されたのを記念した催しだという。伊藤道郎については小生も無関心ではありえず、かつて山田耕筰との関連で彼のバレエ・リュス体験なるものの信憑性について詳しく論じたことがある(
→ここ)。
少し早目に会場に着くと、栃木県立美術館の木村理恵子さんが客席にいらした。彼女は十五年前に「ダンス! 20世紀初頭の美術と舞踊」展を担当され、伊藤道郎についても重要な資料の発掘と展示を行った方だから、このシンポジウムにも格別な関心を抱かれたはずだ。小生はご挨拶かたがた重たい荷物を引き渡した。中身は山田耕筰と恩地孝四郎に関する資料である。しばらく彼女にお預けして、研究と企画に役立ててもらおうと考えたのだ。
二時から始まったシンポジウムは興味深い点もなくはなかったが、内外の研究者や関係者の発表にバラツキがあり、全体としては退屈で一貫性を欠いた感が否めなかった。しかもスケジュールよりも時間が甚だしく押してしまい、すべての講演が終了したのは五時半過ぎ。予定を一時間近くも超過したのはいただけない。そもそも海外の発表者に与えられた時間が少なすぎ、発表と逐語通訳とで倍以上の時間がかかっていた。主催者の不手際だろう。
そのなかで、与えられた時間内で論点を見事に整理した
武石みどり教授の「舞踊家伊藤道郎の出発点:ロンドンからニューヨークへ」は出色のスリリングな発表だった(内容的には上述した「ダンス!」展カタログの論考とほぼ同一だったが)。
どっと疲労困憊して辞去。この手のシンポジウムは大概いつもこうだ。
11月12日(日)
さすがに上京も四日目ともなると疲れが全身に回って難儀である。だが老体に鞭打って出かける。なにしろ昨日までの日程はすべて前座、今日こそが真打の登場なのだ。
上野駅の公園口を出ると常ならぬ混雑ぶり。もう夕方近いというのに、これから展覧会に向かおうとする人、すでに観おわった人、いくつかハシゴしようとする人が入り乱れ右往左往している。長蛇の列ができ、待ち時間百分との看板を掲げる係員を目にした。そこまでして観たいのか。かく云う小生もかつてツタンカーメン展やミロのヴィーナス、モナリザ観たさに行列したひとりなので、偉そうな口はきけないが。
雑踏を逃れるように公園を斜めに突っ切って、東京藝術大学音楽学部へ。ここは嘘のように静かな別天地だ。日曜日なので学生の姿も見えない。
ここで夕刻五時から音楽学の泰斗
リチャード・タラスキン教授のレクチャーがある。これは絶対に聴き逃すことができない。近代ロシア音楽史を少しでも齧ったならば、彼の仕事の恩恵に浴さずにいられない。知らない人間はモグリである。
門外漢の小生だってタラスキン教授の凄さは承知している。ストラヴィンスキー研究に新天地を開いた "Stravinsky and the Russian Traditions" (1996) はあまりに浩瀚すぎて必要箇所を部分的にしか読んでいないが、エッセイ集 "Defining Russia Musically" (1997) と "On Russian Music" (2008) は通読し、大いに刺戟を受けた。彼は博学な音楽史家であるばかりか、舌鋒鋭い批評家でもあり、若い頃は古楽演奏の実践にも携わった。未読だが、"The Oxford History of Western Music" (2005) は目覚ましく斬新な視点と卓見に満ちた通史として、夙に評判が高いものだ。
そのタラスキン教授がこのたび「京都賞」を受賞された。これまで音楽部門の受賞者はメシアン、ジョン・ケージ、ルトスワフスキ、クセナキス、リゲティ、アルノンクール、ブーレーズ、セシル・テイラーと、すべて作曲家と演奏家で占められていたが、今回初めて音楽学者として選ばれた。星の数ほどいる同業者のなかで、彼がいかに飛び抜けた存在であるか、今回の受賞はその証でもあろう。
京都賞の受賞者は授賞式のために来日するだけでなく、講演とワークショップを催すのが通例なのだという。いつもならすべて京都で催されるのだが、このたびのタラスキン教授に限り、われら関東人にとって幸いなことに、講演会は京都で、ワークショップは東京で、という変則的な形をとった。今日はそのワークショップが藝大で催される日なのである。
題して「
ストラヴィンスキーのオペラ《マヴラ》~レクチャーと上演」。聴衆は申し込み順、限定160名というので、小生は三か月も前に予約して、この日を指折り数えて心待ちにしていたのだ。
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そんなわけで、人影のない藝大キャンパスを奥まったあたりまで歩を進める。随所に案内ポスターが掲出されているので、迷う心配はない。目指す建物が見えたところで、ポスターの脇に佇んでいる御仁がいる。なんとタラスキン教授ではないか! こちらに向かって歩いてくる。黙ってすれ違うわけにもいかず、"Hello!" と声をかけると、"Hello!" と返してくださった。それだけでもう胸が一杯になる。
会場は四号館の第六ホールという場所。奏楽堂の向かって左の建物にある中ホールである。四時半に開場。初めて入ったが、木材を生かした内装が落ち着いた空間だ。教授の演壇に近い右寄り、前から四列目あたりに座席を確保した。ほどなく座席はあらかた埋まった。
定刻の午後五時きっかりにスタート。紹介に引き続きタラスキン教授が登壇。穏やかな立居振舞だが、滲み出す威厳と風格があたりを払う。
教授の語り口は穏やかだが、朗々たる英語の響きが美しく、ほれぼれと聞き惚れてしまう。同時通訳の用意もあったが、深々とした低音の語りを味わいたくて、イヤホンを耳から外してしまった。
***
それにしても思いもよらぬ演題だ。オペラ《マヴラ》はストラヴィンスキーの全オペラ中で最も人気のない作品だろう。これに先行する《兵士の物語》や《狐》と比較しても影の薄い、「忘れられた」舞台作品といえる。小生もこれまで上演に接したことがない。
ディアギレフのバレエ・リュスが初演したというのに、三大バレエは無論のこと、《プルチネッラ》《婚礼》《オイディプス王》《ミューズたちを率いるアポロ》と較べても格段に上演・演奏の機会に乏しいし、正面切って論じられることも尠かった。だからタラスキン教授の記念レクチャーの題材がこれと聞いて、ちょっと虚を突かれた気がしたのは小生だけではなかろう。
タラスキン教授のレクチャーは「
オペラ《マヴラ》はなぜストラヴィンスキー最初の大失敗作だったのか? Why Was Mavra Stravinsky's First Big Flop?」といささかスキャンダラスな標題をもつ。教授はまず米国、モナコ、ウクライナが発行したストラヴィンスキーの記念切手を紹介し、ロシア本国では未だストラヴィンスキーの切手が存在しないことを示し、コズモポリタンとしての作曲家の特異な立ち位置をわかりやすく明示した。
次いで教授はこのオペラはストラヴィンスキーがロシア的な題材にロシア語の歌詞で作曲した最後の作品だと指摘し、《プルチネッラ》ではなく本作こそが彼の非ロシア的な「新古典主義」時代を開始する分水嶺の作品であると定義づける。
ただし《マヴラ》の性格は一筋縄ではいかない。当初はニキータ・バリエフが率いるレヴュー劇団「蝙蝠座 La Chauve-Souris」での上演を念頭に、キャバレー風の軽いヴォードヴィルとして構想され、のちにバレエ・リュス用に(楽器編成を拡大して)書き改めたという経緯があり、パリのオペラ座での華々しい上演にはおよそ相応しくなかった。当然のように批評は芳しくなく、標題にあるごとく彼の「最初の大失敗作」となったという次第だ。
《マヴラ》の楽譜の献辞に、ストラヴィンスキーは原作者プーシキンと並べてグリンカとチャイコフスキーの名を記していることも見逃せない。彼らはロシア音楽の流れのなかで西欧派に位置し、国民楽派とは一線を画しており、イタリア音楽への親近性を顕著に示す。この二人の名をあえて記すことで、作曲家は自らもその末裔に属する「五人組」、とりわけ恩師リムスキー=コルサコフへの訣別を示そうとした、というのがタラスキン教授の見立てである。
実際、《マヴラ》のバラシャのアリア「ロシア乙女の歌」の伴奏部分を調べると、ストラヴィンスキーの和声の扱いに、それまでの諸作品とは明らかに異質な手法が用いられており、従来の「ロシア的なるもの」からの離脱がはっきり認められるという(このあたり、教授は自ら歌い、ピアノを弾きながら力説されたが、悲しいかな、小生は完全には理解できなかった)。
こうした新たな方向性は二年後の《八重奏曲》へと受け継がれ、ストラヴィンスキーのコズモポリタンな新古典主義の確立に道を拓いた。その意味で、《マヴラ》はまさしく転換点、彼の創作の分水嶺となる作品なのだ。
最後にタラスキン教授は、このオペラの最も優れた音源として、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮によるロシアでの初録音(1972)に言及し、その一部を聴衆に聴かせた。小生はこのLPをかつて何度か聴いたので、なんだか嬉しくなった。音源は雑音だらけで聴きづらいが、間違いなくあの懐かしい演奏だ。
ここまでで約一時間半。タラスキン教授の語り口は平易で親しみやすく、片時も聴き手の心を逸らさぬ見事なものだ。これを毎週のように聴講できたバークリーの学生が羨ましくてならない。
教授はこのあと《マヴラ》が次代の作曲家たちに及ぼした影響についても語りたかったろうが、すでに予定の時刻になったのでレクチャーはこれにて終了。この続きは大著 "Stravinsky and the Russian Traditions" の末尾の当該章で詳しく読んでみたい。
***
十五分間の休憩を挟んで、後半は藝大生たちによる《マヴラ》実演である。教授のレクチャーに続いて、この稀少なオペラを生の舞台で(しかも無料で!)聴けるなんて、なんという粋な計らいだろう。
上演されたのはオペラ全曲のポール・フィリップスによる室内楽版(フルート、2クラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、コントラバス)。この版による日本初演だという。指揮は作曲家で藝大教授の小鍛冶邦隆。
登場するのはわずか四人の歌手のみ。多少の演技を伴うセミステージ上演とはいえ、オリジナルどおりロシア語での歌唱だから、短期間でここまで仕上げだ努力は多としたい。
とはいうものの、これで《マヴラ》の魅力が伝わったかといえば、残念ながら答えは否。歌手たちも奏者たちも一応は大過なく務めはしたものの、この舞台がオペラとして成立していたかどうかは疑問である。
とりわけ悲しかったのは、「歌いながら演じる」というオペラの基本ができておらず、演技の点で(失礼ながら)学芸会の余興の域を出ていなかった。登場するのは類型的な喜劇的人物ばかりだが、その「類型」としての面白さが見えてこないのだ。
かつて小生はロンドンでギルドホール音楽学校の学生たちがフォーレのオペラ《ペネロープ》を上演した舞台を観たことがあるが、登場する誰もが登場人物になりきって歌い演じていたのに驚嘆したものである。それと較べてしまうのは酷かもしれないが、ちょっとこれは心安んじて観ていられない舞台だった。
終演後、客席にいたタラスキン教授は「チャーミングな演奏を難有う」と口にされていたが、小生にはこのオペラの「チャーム」が露ほども感じられなかった。コメディをわざとらしくなく、いきいきと演じ歌うのはいかに難しいことか。
11月13日(月)
上京も五日目ともなると心身が疲弊しきっている。眠り足りない、起きたくない。昨夕のタラスキン講演の残響が耳の奥に残っていて、それを反芻したい気持ちだが、朝早くたたき起こされ、家人に同道して六本木に向かう。遅めの出勤時間なのだろう、車中はかなり混み合っている。
10時からTOHOシネマズ六本木で「ナショナル・シアター・ライブ」で新着映像《
一人の男と二人の主人》を上映中という。全く未知の芝居であり、抱腹絶倒のコメディというだけの予備知識で出向く。喜劇なのだから、まあ、観ればそこそこ愉しいだろう。
同じ作品を日本橋でもやっているが、上映が夜間一回きりなので遠慮し、六本木で観ることにした。ここに来るのは同じシリーズの《三文オペラ》を観た六月以来だと思う。
《一人の男と二人の主人 One Man, Two Guvnors》なる標題から小生がただちに連想したのは、カルロ・ゴルドーニの芝居《二人の主人を一度にもてば Il servitore di due padroni》だったが、どうやら図星だったようだ。
この新作(といっても実際の上演は2011年)はその18世紀の古典的喜劇のプロットの骨子をそのまま用い、舞台を1963年のブライトン(英国の江ノ島&鎌倉)に移し替え、細部をいろいろアップデイトしたものらしい。
サウスバンクのリトルトン・シアターで収録。脚本はリチャード・ビーン、演出はニコラス・ハイトナー。ハイトナーは当時のナショナル・シアターの総監督だった由。
いや~面白かった。べつだん新奇な工夫があるわけではなく、使い古されたあの手この手で笑いをとる、吉本やドリフやひょうきん族さながら旧態依然たるドタバタ喜劇なのだが、とにかく可笑しくてたまらない。なにかと鬱屈してばかりいる小生には、この馬鹿げた笑いが必要だったのだ。
面白さの源の大部分は、主役を務める
ジェイムズ・コーデンの体を張った熱演にあるのは間違いないだろう。演技そのものは泥臭く、野暮ったくもあるのだが、とにかく存在そのものが可笑しくてならない。家人によれば彼はすでに英米で大変な人気者で、トニー賞だかグラミー賞だかの司会者も務めているそうな。
もちろん他の登場人物もそれぞれ変な奴ばかり。類型的ながら、その喜劇的な存在感がいい。昨夜の《マヴラ》上演に欠けていたのはまさにこの「類型の可笑しさ」なのだ。
1963年の英国に舞台を移した真意は不明ながら、冒頭を始め随所に勃興期のリヴァプール・サウンドもどきの生バンドの演奏が挿入され、舞台を活性化する。このヴォードヴィル風の趣向も楽しかった。
終演後はあちこち界隈をうろつくことなく、寄り道もせずに日比谷を経由して大人しく帰宅。今日は笑いすぎて草臥れた。