映画好きの友人たちと会うことはもうなかったものの、彼らから教え込まれた教訓は片時も忘れることはなかった。世評を信じることなく映画館に足を運び、スクリーンに対峙して、自分の眼で作品のよしあしを見極めよ。本当に優れたものは、人知れず、ひっそり隠れているものだ・・・。
6月3日(水)
■《ゴシック》(プレミア上映)&《アメリアと天使》
6月4日(木)
■《プロコフィエフ》&《クラウズ・オブ・グローリー》
■《アルタード・ステーツ》
■《エルガー》&《バルトーク》
■《トミー》
6月5日(金)
■《10億ドルの頭脳》
■《クライム・オブ・パッション》
■《イサドラ・ダンカン》&《夏の歌》
■《マーラー》(プレミア上映)
6月6日(土)
■《リストマニア》
■《フレンチ・ドレッシング》
■《肉体の悪魔》
■《狂えるメサイア》(プレミア上映)
6月9日(火)
■《バレンチノ》
■《恋人たちの曲・悲愴》
■《ボーイフレンド》
■《恋する女たち》
題名を目で追っているだけで立ち眩みがしてきた。
これは凄い! 若き日の自主制作の短篇《アメリアと天使》(1958)を皮切りに、幻のデビュー作《フレンチ・ドレッシング》(1964)から当時の最新作《ゴシック》(1986)まで、文字どおり全監督作品がずらり勢揃いしている。まさしく「ケン・ラッセル・レトロスペクティブ」の名に恥じない、堂々たる回顧上映なのだ。
さらに驚いたのは、ケン・ラッセルが映画監督として独り立ちする前に、BBC・TVで監督したドキュメンタリー映画のなかからも、名作の誉れ高い《プロコフィエフ》《バルトーク》《エルガー》《イサドラ・ダンカン》が選ばれたばかりか、独立後に古巣のBBCで撮った、あの衝撃の《夏の歌》までがラインナップに含まれているではないか!
震える手でチラシを握り締めたまま、その場で即座に決断した。
これこそ千載一遇の機会だ。万難を排して、連日パルコ劇場に通わねばなるまい。そのためなら仮病を使っても、職場放棄しても構うものか。なんとしても必ず全作品を目にするのだ。
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プレミア上映の三作品は無論のこと、愚かにも見逃していた《肉体の悪魔》も、本邦未公開の破天荒な《リストマニア》も、このとき初めて観た。初期のBBC作品では、厳しい制約を課せられながら、ケン・ラッセルがケン・ラッセルになっていく過程がつぶさに辿れて興味深々だった。
どれもが必見、どれもが千載一遇、どれもが瞠目に値する作品だったが、小生の個人的な見解によれば、この回顧上映のハイライトが《夏の歌》との十七年ぶりの再見にあったのは言うまでもない。
あれほど打ちのめされ、心ふるわせ、ほうぼうで吹聴した映画だもの、再見が叶うと聞けば欣喜雀躍と駆けつけるのは当然だが、心中いささか躊躇する思いもあった。なにしろ前回TVで観たのは十七歳のときだったから、無暗矢鱈と感動してしまったが、あれが果たして真の傑作だったのか、本当のところ自信がない。大人になって見直したら凡庸な作だとわかるのでは悲しいではないか。昔の恋人に再会するような心持ちなのだ。
6月5日は朝の回からずっとパルコ劇場に居続けた。おそらく昼食抜きだったと思う。目指す《夏の歌》上映は午後四時半からの回。これが終わったら、近くの「渋谷109」のプレイガイドでケン・ラッセルのサイン会があると告知されていた。できればそこにも駆けつけたい。監督の謦咳にじかに接する稀な機会だから当然だ。
ところが物事はなかなか想定どおり進まないものだ。
この日の上映はなぜか回を追うごとに押せ押せになって、お目当ての第三回の開始時刻が四十分以上も遅れてしまい、《夏の歌》を最後まで観ると、監督のサイン会には間に合わないことが判明した。残念だなあ! だからといって、この上映の中途で退出することなど絶対にありえない。
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十七年ぶりに再会した《夏の歌》は実に素晴らしかった。これこそ掛け値なしの傑作であり、事前の心配は全くの杞憂に終わった。
われながら驚いてしまったのは、冒頭からラスト・シーンまでの70分間、すべての場面を克明に憶えていたことだ。「はてさて、こんなシーンがあったっけ」と訝しがる瞬間が全くなく、台詞の節々にまで聴き覚えがあった。十代の記憶力とはげに恐るべきものだ。
ひとつだけ不思議に思えたのは、かつてTVで観たとき受けたスキャンダラスな印象とは裏腹に、ラッセル監督の演出は正攻法で端正そのもの、肌理細やかで折り目正しい作風だったことだ。その後の彼の自由奔放なデフォルメを知ってしまったからだろうか。《夏の歌》はまさに古典的な秀作なのだ。
上映が終わり、感動の面持ちで後方の扉からロビーに進み出た瞬間、思わず歩を止めてその場に立ちすくんだ。
すぐ目の前にケン・ラッセル監督が立っていたのである。
意を決して監督のほうに歩み寄り、用意してあったLPレコード(ディーリアスのヴァイオリン・ソナタ集。《夏の歌》のスチル写真がジャケットを飾る)をそっと差し出してサインを乞うた。監督は "Oh, Delius !" と、目を丸くして驚いてみせた。
気がつくとたどたどしい英語で監督に話しかけていた。若い頃にTVで観た《夏の歌》と、今日やっと再会でき感激していること、この映画が監督作品との出逢いだったこと……。
"Oh, it's my favourite, too." 「私も気に入ってるよ」。監督はそう答えると、ちょっと遠い目をして懐かしそうに微笑んだ。