(承前)
1970年は特別な一年だった。予期せぬ出逢いが次から次へと押し寄せる、めくるめく日々。
1月には
マルタ・アルゲリッヒ(当時の表記)の初来日公演。バッハとショパンとシューマンとラヴェル、それにプロコフィエフの協奏曲を生で聴いて魅了された(東京文化会館)。
2月にはNHK・TVでケン・ラッセル監督作品《夏の歌》を観て震撼させられた。
4月には
シャルル・デュトア(当時の表記)なる無名の指揮者が振った読売日本交響楽団の演奏会「スイスの夕べ」で
リーザ・デラ・カーザが歌うリヒャルト・シュトラウス《四つの最後の歌》を聴いた(日比谷公会堂)。終演後の楽屋で、お忍びで来日中のアルゲリッヒに遭遇。
同じく4月にはパリ管弦楽団の初来日公演(東京厚生年金会館)。
ジョルジュ・プレートル指揮によるオール・ラヴェル・プロ。生まれて初めて耳にするフランス楽団の繊細きわまる音色に恍惚となった。
5月、ふと思い立って
カレル・ライス監督の伝記映画《裸足のイサドラ》の封切上映に足を運んだ(丸の内松竹)。
ヴァネッサ・レッドグレイヴ主演。イザドラ・ダンカンへの興味を募らせた。
同じく5月、
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル。《幻想交響曲》と《ダフニスとクロエ》第二組曲(東京文化会館)。究極のオーケストラ演奏に触れた思い。先般のパリ管弦楽団の印象が霞むほどの衝撃。アンサンブルは完璧で、《ダフニス》ではカラヤンの棒の先から音が出ているように思えた。
田舎者の高校生には身に余る贅沢な芸術受容というほかない。連日の体験が飽和状態に達し、感動のあまり、どうにかなりそうだった。語り合う仲間が周囲におらず、すべては一人きりの胸の中の出来事なのだ。受験勉強は全く手につかなかった。
細々と貯め込んだ小遣いはほどなく底をつき、演奏会通いはここまでだ。この年は大阪万博があり、世界各国から綺羅星の如き演奏家・演奏団体がこぞって来日した。小生が足を運んだ「スイスの夕べ」も、パリ管とベルリン・フィルの公演もその一環の催しだったのである。
それでもTVで
セルジュ・ボド指揮パリ管弦楽団、
ジョージ・セル指揮クリ―ヴランド管弦楽団、
アルヴィド・ヤンソンス(エヴゲニー・ムラヴィンスキー急病の代役)指揮レニングラード・フィル、
ジョン・プリッチャード(急逝したジョン・バルビローリの代役)指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団、
レイモンド・レパード指揮イギリス室内管弦楽団、
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮パイヤール室内管弦楽団の演奏会を羨望の眼差しで眺めた。
ボリショイ歌劇団の《エヴゲニー・オネーギン》公演で
ガリーナ・ヴィシネフスカヤが「手紙の場」を嫋々と歌い、ピットで
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチが大仰なタクトを振る姿もブラウン管でつぶさに観た。極め付きは「幻のピアニスト」
スヴャトスラフ・リヒテルの初来日公演だろう。戦時下で彼が初演したというプロコフィエフの第七ソナタを奏でる姿に、ただもう圧倒されるばかりだった。
(つづく)